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症状別アドバイス集

強迫神経症の部屋

「(こうあるべき)を緩めてみる」 '20.12 

こんにちは、Hさん。約10年もの間、さまざまな症状に悩んでらっしゃるのですね。社交不安、確認恐怖、限局性恐怖症と悩みが多く、苦労されていることとお察しします。中でも最近は特に、3人以上の会食場面での緊張にお困りとのこと。会話が止まり皆押し黙っていると、自分が緊張しているせいだと思ってしまうのですね。会食の後には、後悔の念が数日間拭えなくなってしまうというのは、お辛いですね。

Hさんは緊張について、「できる良い人、人気のある人、面白い人と思われたい」気持ちの強さが背後にあると気づいておられるようです。また、「ちゃんとした人でいたい」という思いがありながら、気がついたら上手くいかなくなってしまう悪循環に陥っていることも、理解してらっしゃいます。Hさんは、よく自己洞察をされているなと感じます。

では、ここからどのように考えていけると良いでしょうか。森田療法が示す手がかりの一つとして、悩み行き詰った時には「思想の矛盾」が潜んでいる、ということがあります。思想の矛盾とは、「こうあるべき」と、理想の型に自分を当てはめる姿勢のことです。森田は「思想の矛盾」について次のように述べています。「たとえば冬は寒い、心配事は苦しい、それを寒いと感じず、苦しいと思わないようにとすることは、白を黒と思い、曲り松を直松と見ようとするのと同様に不可能なことである。すなわち、『思おうとする』と『思うことができぬ』とのいわゆる循環論理の際限ない心の葛藤になるから当然苦痛の極になり、眼も見えず、頭もボッとなることは当然のことであります。」

Hさんの場合はいかがでしょうか。ひょっとすると、「こうあるべき」という理想の型を自分に当てはめようとする姿勢があるのではないかと推察します。この「思想の矛盾」を緩めていくことが、Hさんの生きやすさにつながっていくように思います。そのためには、「こうあるべき」を、一度わきに置いてみるのはいかがでしょうか。 具体的には、Hさんが会食される際に、「緊張してはいけない」「喋らないといけない」という思いを一度わきに置いて、まずは様子を見てみることから始めるのです。そうしているうちに、Hさんの中で「話したいな」という感じが自然に浮かんでくるかもしれません。その感じにのって過ごしてみると、等身大の無理のないあり方となって、Hさんも相手の方々も居心地良く感じるかもしれませんよ。少し力を抜いて、「こうあるべき」を緩めてやっていきましょう。
(金子咲)

「森田先生自身の体験」 '20.11 

森田療法の治療目標は、
(1)不安を排除することをやめる
(2)不安の裏側にある「~したい欲求(森田は生の欲望と言いました)」を建設的な方向へいかすこと
とされ、これを端的に表現した言葉が「あるがまま」です。

ここで森田正馬先生自身のエピソードを記します。 森田は東京帝国大学(現在の東大)医学部へ入学後も相変わらず死の恐怖に基づく様々な身体症状にとらわれていました。 高知に住む父親からの学費の送金が遅れたと思い込み、父親への反発から、必死の思いで背水の陣をとり、今まで飲んでいた薬や治療を一切やめてしまいました。 そして目の前の試験勉強に必死で取り組みました。その結果長年苦しんでいた様々な症状は一気に軽快し、試験の成績も良好でした。

北西の「初めての森田療法(講談社現代新書)」を参照すると、「一般に西洋由来の精神医学では症状を目標にしてそれを軽減するような手段を講じます。 それは薬物療法や西欧での精神療法、認知行動療法も同じような発想です。しかし森田は悩んでいた症状は放っておいて、どうにでもなれと開き直り、試験に合格することに取り組みました。 つまり、症状をそのままにしながら、目の前の作業に入り込むことで、症状は劇的に改善したのです。」と書かれています。

つまり森田療法では症状を治そうとするエネルギーをいかに健康的な方向へ転換していくかが大事になります。 B様にとって今どのようなことが大事かを自らに問いかけて見て下さい。森田先生は、本当に自分が何を求めているか静かに自分を見つめましょうといった類のことを言っております。その方向へ建設的な行動をしていく結果として次第に症状は軽くなっていくと思います。
(舘野歩)

「相手の感じ方は決められない。そのなかでも自分が心地良く過ごすことはできるもの」 '20.10 

Aさんは向かい合って話すときに顔がこわばって会話に集中出来ず、人前での発表も赤面・動悸がして頭が真っ白になってしまうことを悩まれています。そして何も気にせず友達と楽しく話せるようになりたいとのことです。

人と接することや人前で何かすることにかなりの緊張があるなか、友達付き合いや発表など頑張っていますね。Aさんが一番望んでいるのは、友達と楽しく話をすること、そして出来たら友達もその時間を楽しんでくれていることでしょうか。

表情を整えて会話をしようとすると、表情に気が行ってしまい、会話に集中できなくなってしまいます。こわばった顔をどうにかしようとして取る行動が逆に会話を味わいにくくさせてしまい、さらに雑念に気が向いてしまいます。向かい合って話すのが苦手だったら横並びに座ったり、まずはAさんが会話しやすいかたちを取ってみてはいかがでしょうか。

発表についても同じです。人前での発表は顔がこわばったかどうかよりも、発表の内容を伝えることに集中しましょう。人前で臆せず堂々とすることに気が行きますが、内容が伝わることが大事ですね。この大切さは、学校を卒業して、仕事に就くようになっても同じです。なぜなら、仕事でより重要なのは表情ではなく、仕事の中身ですから。伝わればまずはよいのです。

そして第二に、「仲良くしている友達がいるのに私のようなつまらない人と関わっても楽しくないだろうなと負の感情を抱いてしまう」という気持ちについて書いてみます。どんなところから相手がつまらないと感じていると思うのでしょう?

相手の気持ちを考えることはもちろん大事です。でも、楽しくないだろうなと決めてしまうのはどうでしょうか。話した時にどんなふうに感じるかはその人にしかわからず、どんな話をして誰と一緒に時間を過ごしたいかは本人が決めることで、その人の自由ですね。そのお友達がAさんと仲良くしているのなら、そのお友達本人が自分で選んでそうしているのですよね。

同じことはAさんにとっても言えます。Aさんがどう感じるかもAさんの中で自然と起こることなのです。誰かがAさんの感じ方をコントロール出来るわけではありません。内面でどう感じるか、そして誰と付きあうかもAさんの自由なのです。好きな友達と話していても昨日は凄く楽しかったけど、今日はそこまででもなかったということだって起こるのです。違いが起こる理由は様々で、話題によっても、お互いの体調によっても違うでしょう。

そんななかアルバイトに応募されたとのこと。応募してみようという気持ちが出て、実際にアクションを取られた、素晴らしいですね。

人と接することに苦手な気持ちがあると苦手さを克服しようとして、接客を要する仕事など、緊張のある職種を選んでしまうことがありますが、どんな職種にも対人要素はあります。表情を通じてではなく、仕事ぶりを通じてAさんのまじめさや良さが伝わっていくとよいですね。
(矢野勝治)

「病気を恐れて病人の生活をしてしまわない」 '20.9 

Hさんはここ5年ほど強迫性障害(とくに疾病恐怖)に悩んでいらっしゃいます。どんなことでも、病気なのではないか、という不安に繋がってしまい、一度悩み始めると自分の中でOKがでるまで考え続けてしまうということです。また、病気のことをネットで調べてどんどん思いつめてしまって困っていらっしゃいます。薬物療法はうつ病の症状には効いたということですが、強迫症状には効果がはっきりしないようです。Hさんは、このような状態でもパートに行ってらっしゃるとのこと、よく頑張っていますね。

病気になるのは嫌なことで、「出来れば病気になりたくない、健康でいたい」という気持ちはとても自然な気持ちですね。ただ、残念ながら、私たちはどれだけ気をつけていても、病気になってしまうことがあります。生きている以上、こればかりは避けられないことなのです。病気になりたくない、ということは健康でいたいということ。健康でいたいのは、自分らしく生きていきたいからですよね。そうであるならば、実際には病気でない今、病気を探すことにエネルギーを注いで、まるで病人のような生活になってしまうことが一番もったいないのではないでしょうか。

病気のことが心配になったとき、ある程度調べることは必要だと思いますが、ネットで色々と調べても、ネットの情報というのは正しいものばかりではありません。それらに振り回されてしまうと、ますます不安も強くなってしまうものです。「納得するまで」という基準にすると調べものがなかなか終われないと思います。まずは、スッキリしなくても「調べるのは15分まで」と時間で区切ってみてはいかがでしょうか。そして、今まで調べることに使っていた時間を本来の自分がやりたいことに手を付けてみましょう。そのときは「スッキリしないまま」で構いません。そうしていると、時間とともに不安も変化していくと思います。是非とも少しずつHさんの日常生活を取り戻していって下さいね。応援しています。
(谷井一夫)

「その考えはあながち間違っていない」 '20.8 

Bさんは対人恐怖症と戦いながら日々奮闘されているのですね。他者からの評価などに怯え、緊張を募らせる訳だから、その苦しみは半端ないと思います。そこで、Bさんは「緊張は思っても出来ないのだから、緊張を消すこともできないだろう」と仮説を立て、敢えて対人恐怖症の治療を諦めようとした訳です。このような捉え方の転換はあながち悪いものではありません。森田療法に背くようなことでもなく、むしろ理に適った逆説的な対処ではないかと、私は考えます。やはり、人前で怖いという感情を消すことはできないのです。いやむしろ消してはいけないのです。何故なら、怖いという感情があるからこそ、人は慎重に他者を見極め、信頼に足る人々を嗅ぎ分けられることに繋がるからです。

ただし、森田療法は症状については諦めることを勧めていますが、実生活への行動には粘って奮闘することを示唆しています。だからと言って、Bさんが言われているような仕事や日常生活への完全な集中までは求めていません。完璧を意識したら、完璧な振る舞いに注意が向き、余計に対人緊張を募らせてしまいます。むしろ恐々と必要な相手に話しかけたりするだけで十分なのです。その場合、ゆっくり、はっきりと話すことを心がけてください。相手の思惑を気にして話そうとすれば、「傷つけまい」などの気持ちが優先され、回りくどい言い回しになってしまいます。特に「私は~と思います」などの文章の中で「ます」を多少強めに言い切るということを意識すると相手にこちらの真意が伝わる様に思います。苦手なもの程、神経症の患者さんに限らず人間は難しく考えがちです。でも苦手なのだから、簡潔にことを済ませるという発想があっても良いと思います。勿論、私の提案が正解ではなく、一つの意見に過ぎませんが、参考にしていただければと思います。

最後に、対人恐怖症の治療の中盤以降で大切なのは、自分の意見を述べるだけでなく、相手のことを気遣い労う姿勢の醸成にあると考えています。相手に「ごめん」「ありがとう」、そして「助かったよ」などの言葉を是非簡潔に投げ掛けてみてください。こういう言葉から案外、人間関係は広がっていくのだと思います。

まだ悩みの最中でしょうが、Bさんの治療が展開することを願っています。
(樋之口潤一郎)

「コロナ不安と森田療法の知恵」 '20.7 

Kさんは、小学生の頃にドラマで自殺のシーンを見て「自分がやったらどうなるのか」という考えが浮かび、その後高校生くらいになった後も場面を変えて自殺に関する観念に襲われるようになり、不安に苦しんでいることを書き込まれています。

怖いイメージが頭から離れず、苦しい状況と拝察します。心療内科で相談したり、サイトを見て森田療法を学んだり、様々な努力をされているのですね。

子供のころや思春期は、感受性も強く、生きるエネルギーも強いために、怖いイメージが恐怖心と共にこびりつくことがまま起こります。森田先生も子供の頃近くの寺の地獄絵図を見てその恐怖に苦しんだエピソードが知られています。 まずは、浮かんでくる観念と現実は異なる、ということを(頭でだけでもよいので)区別していきましょう。

さて、Kさんは何故浮かんでくる観念にそこまで恐怖を感じるのでしょうか。やはりそこには「生」に対する欲望があるのではないでしょうか。「死の恐怖」は人間の根本的なものであり、森田先生も「死は恐れざるを得ない」と述べられています。そして「死の恐怖」はそれだけで存在するものではなく「生の欲望」と背中合わせに存在するものです。  Kさんは「不安を抑えることをせず自分のする事をしなさい」というアドバイスを受けているとのこと。そのアドバイスに少し補足をするとしたら、「怖さを感じたまま、今できることに手をつけていく」ということになります。強い不安に襲われたとき、圧倒されそうになることもあることでしょう。そうしたとき、例えば、嵐の吹き荒れているときには布団を被って震えているしかないけれど、ちょっと落ち着いたら布団を持ち上げて布団の外をのぞいてみる、そうしたら目についた読みかけの本に手を伸ばしてみる、また怖くなって布団を被るけれど、また今度は起き出してみる・・というイメージでしょうか。手をつけることは、身近なことでよいと思います。

「しかし不安が襲ってきたらどこかで排除してしまうのか不安が増大してきます。」ともかかれています。「不安を消すためにあるがままにする」と構えてしまっているところもあるかもしれませんね。不安はすぐには消えないもの。一方で、不安や恐怖には一定の強さでは続かない、という性質があることも知っておきましょう。

不安を抱えつつ、本来持つ人一倍強い「生の欲望」を生活の方に生かしていきましょう。
(塩路理恵子)

「病気を治すことと仕事へいくことを分けずに」 '20.6 

O様、社交不安障害でさぞかしお辛いと思います。ただ「病気を治してから仕事」とお考えのようです。森田療法の創設者森田正馬は「神経質の本態と療法」の「はじめに」には「病気を治すのは、その人の人生をまっとうするためである。生活を離れて、病気は何の意味をもなさない。近来医学がますます専門に分かれることと、一方には通俗医学の誤った宣伝とのために、医者も病人もともに人生ということを忘れて、ただ病気ということだけに執着する。その結果、俗にいう『角をためて牛を殺し』、『ニンジンを飲んで首をくくる』ことが、いかに多くなったかということはまことに悲しむべきことである。」と述べています。病気を治すことと生活、人生を分けて考えないことが大切です。

社交不安障害という病名はアメリカの操作的診断基準・DSM5での名称です。「障害」=「何か欠けている」と考えてしまいがちですが、森田は社交不安障害、対人緊張の背後に「過大な生の欲望」を見出しました。森田の著作「神経衰弱と強迫観念の根治法」の「赤面恐怖症治癒の一例」で、森田は患者さんに「君の赤面恐怖は、人よりも強がりたいという欲望、心が安楽になりたいという欲望の過重からであった。苦悩を苦悩としてこれを苦悩したときに、その苦痛を忘れたのであった。」と語り、さらに「読者はこの例によって、いかなるところに着眼するであろう。病は何のために治すか。目的がなければならぬ。すなわち薬なり催眠術なりを用いるにしても、たんにその容態を治すだけでなく、その人を治さなければならぬ。ここに人生観というものがなければならぬ。」と述べています。

他の方も述べていますが、「社交不安障害」の背後には実は「営業でより良い成果をあげたい。自分から優れたアピールしたい。」といった「過大な生の欲望」が潜んでいるのではないかと思います。Oさん、「いいや私にはそんな過大な欲望はない」とおっしゃるかもしれません。そうしたら「まず自分自身の本性に立ち返ってみればよい。」という森田先生の言葉を送ります。少しでもお役に立てば幸いです。
(舘野歩)

「残念と工夫とが、場数を踏んで積もり積もって、はじめて適当(適度)がわかるようになる」 '20.5 

Sさんは、元々内気な性格で、人と話す際に怖いと感じてしまったり、変なことを言っていないかと不安になり、話しかけることをためらって後悔することが多いということでした。こうした対人関係の悩みを抱く方は多いと思います。Sさんが「話しかけてくれることは嬉しいが、いざ自分から話そうとするとどもってしまって話しにまざれなかったり・・」と書いているところを見ると、本当は交流を持ちたい気持ちが強いからこそ、相手の反応に敏感になり、逆に緊張を強めてしまっているようですね。

森田先生は、次のように話しています。『言おうか言うまいかと迷うことについても、種々の度合いがある。気の軽い人は、言いたいことがあれば、心の何の拮抗作用もなくて、そのままベラベラしゃべってしまう。賑やかで良いけれども、むだ事が多くて、うるさくて仕方がない。意志薄弱性のものは、恥ずかしくて自分で言わないことに決めているから、心に少しも葛藤はなく気楽である。神経質は、言いたくてたまらないで、しかも大事をとるから、心の葛藤が非常に強い。これが一歩間違えば、言おうか言うまいかのただ二道の堂々めぐりの迷いになるが、これが一転して、よく場合を考え、適切な文句を工夫するというふうになれば、上等になる。ともかくも心の葛藤の大きいほど偉い人です。そして確かな思想があって、しかもペラペラしゃべらないでいるときに、「沈黙は大なる雄弁なり」ということにもなる。~(略)~ 

僕なども、このことについてはずいぶん昔から迷い苦しんできた。会などでも、今度こそ言おうか、もう言おうかと考えているうちに、ツイツイ時機を失しておしまいになる。重荷を下ろしたようで楽になるが、しかも残念でたまらない。~(略)~  またある座席でときどき、うまい滑稽をいって、人々をアッと言わせたいという野心の出ることがある。これは演説のような筋道の立った腹案をもってやるというわけにはいかない。その場合と周囲の状況とにおける咄嗟の間の思いつきでなくてはいけない。間一髪の気合でなくてはいけないから、しばしばその時機を失して、はなはだ残念なことがある。こんなことも結局は、残念と工夫とが、場数を踏んで積もり積もって、捨て身の心境に達した時に、はじめて適当のかけひきができるようになる』。

つまり、上手くやろう、評価されようといった野心が、心の葛藤や迷いを引き起こすということでしょうし、躊躇してしまうことが逆の結果を招くということでもあるのです。

Sさんは上司に報告する際にためらってしまうと書かれていました。上手く伝える自信がもてないがために、伝えること自体をやめてしまうと、上司からは仕事をやっていないと誤解されてしまうかもしれません。それは自分を理解してもらう「時機を失する」ことになり、大いに損をしてしまうことになります。

人との関わり方は、相手によっても状況によっても変わってくるものです。森田先生が言うように「沈黙」しつつ、聞き上手になることも必要でしょう。一方、上司への報告であれば、「伝える」ことに力を注がなければなりません。そこでは、思ったように伝えられずにがっかりすることもあるかもしれません。しかし、そうした「残念」という気持ちが、次の「工夫」に繋がり、その経験の積み重ねを通して、自分らしい関わり方が出来るようになるのではないでしょうか。森田先生の「捨て身」という言葉は、やみくもに進むということではなく、結果や保証をあらかじめ求める姿勢への忠言といえます。残念と思うのは、次の一歩への原動力になります。「場数を踏んで」こそ、わかることがきっとあると思います。
(久保田幹子)

「強迫症状との付き合い方」 '20.4 

Yさんは幼少時から不潔恐怖や手洗い強迫行為があり、母親や職場での人間関係でも大きなストレスを抱え、鬱が続き悩まれているとのことですね。また、特定の人物が触ったものに触ることができないというお悩みもあり、生活に大きな支障をきたしているとお察しします。

「特定の人が触ったものを触ることができない」、ということを主訴に病院を受診される方はいらっしゃいます。「触ると自分が汚染されてしまう感じがする」、「嫌なものに触ると他に汚染が広がってしまう感じがする」など、患者さんによって訴えはさまざまです。

強迫観念は自分の中でばかばかしいと思いつつも、その観念が侵襲的に頭に浮かび、不快感をもたらすものです。その不快感を解消するために、やむを得ずその行為を避けるわけですが、患者さんのお話を聞くと、「必死に嫌なものを避けたり、手を洗ったりしても、不快感はゼロにならず、繰り返せば繰り返すほど強くなる」と語られる方がいらっしゃいます。

つまり、回避行動を繰り返すことで軽減されるべき不快感がさらに増強されてしまうという悪循環に入ってしまうわけです。この悪循環から抜け出すことが回復の鍵となるため、治療者は「不快感はそのままにやるべき行動に移りましょう」とアドバイスしますが、急に実践するのは難しいものです。そのため、①強迫観念にとらわれている時は、「不快だ、モヤモヤする」といった感情を悪いものと否定せず、そのままに感じてみること、②時計を見ながら自分が決めた時間で次の行動に移ってみることをお勧めしています。

お母様を含め、対人関係におけるストレスや強迫症状については、その時どのような感情が自分の中に生じているか言葉にしてみるとよいでしょう。日記に書いてみると整理されやすいかもしれません。どのような感情も自然に湧き上がってくるものですから、その感情に良し悪しはありません。そのままに受け入れてみる練習も大切です。

しかし、Yさんの鬱症状が強ければ、強迫症状に支配されてしまい、すぐには実践できないかもしれません。そのような時は、鬱からの回復を優先することが望ましいと考えます。お薬の治療も一手です。頭の中では、「〜しなくては」と焦る気持ちで一杯かもしれませんが、一旦やらなければいけないことは棚上げし、しっかり心と体を休ませてあげることが先決と思います。 少し意欲が戻ってきてから、前述した強迫症状との付き合い方を学ばれるとよいと思います。Yさんの回復を願っています。
(鈴木優一)

「沈黙をよしとしながら関わってみる」 '20.3 

Kさんは他人の目が気になり、会話が自然に出てこないことや、自分の発言内容をチェックしてしまうといったことでお悩みなのですね。元々寡黙でいらしたところが就職してから酷くなり、全体的にいつも疲れていて何もできず生活してらっしゃるとのこと、文章からKさんの辛さがうかがえます。一方で、それだけ他人の目を気にされるということは、他の方からのコメントにもあったように、本来人と関わりたいお気持ちが強い方なのだと思います。もしそうだとすると、自分の殻に閉じこもり自ら相手と距離を取ろうとするKさんの姿勢は、勿体ないように感じます。

Kさんは沈黙が怖いと書かれていますが、沈黙することでどうなることが怖いでしょうか?「つまらないと思われたらどうしよう」といった風に、相手から悪く思われることが怖いでしょうか。ただ、実際のところ相手がどう思っているかは分からないものですね。もしかすると、それほど気にしていないかもしれません。沈黙について、森田先生は「訥弁(とつべん)を治すことをやめて、必要なことを言い現す工夫だけすればよい。必要に迫られなければ、なるべく無口の方がよい。『沈黙は、最も大なる雄弁である』という諺さえもあるのである。」と記しています。沈黙を無くそうと思えば思うほど、余計に言葉が出なくなったり、不自然な会話になってしまうものですよね。「沈黙はあっても良い」という心持でいることも一つではないでしょうか。

また、時には自分の気持ちを伝えることも大事です。Kさんは、これまでカウンセリングや精神科に行かれたものの、あまり好転せずやめてしまったとのことですが、そこでは本音の部分を伝えることができていましたか?ご自分の気持ちを飲み込んではいませんでしたか?カウンセリングも診察も、一直線に好転していくことはありません。特に初期の頃は、方針が決まらず行き詰まることが多いです。実際、私がお会いしてきた方の中で、「好転していないような気がする」とはっきりおっしゃってくださった方の方が、よりカウンセリングが深まっていったように感じています。伝える方はとても勇気がいることと思いますし、言われた私も一瞬ギクッとしますが、私としては言葉にしてもらえて初めて本当の気持ちが分かるので、言ってもらえて良かったなと心から思います。

コミュニケーションは会話のキャッチボールです。皆が発言するばかりではぶつかってしまいますから、時に沈黙することも会話の緩衝材として良い役割を持つでしょう。一方で、自分から関わらないと、相手からの反応も返ってこなくなってしまいます。Kさんの「人と関わりたい気持ち」を大切に、時にはKさんの方から歩み寄ることで、相手との会話は広がっていきますよ。
(金子咲)

「完璧は不可能」 '20.2 

Mさんの文には胃腸炎への不安について書かれていましたが、今や他のウイルスの話がずっとニュースで放送されている状態で、いよいよ恐怖の気持ちが湧いてきますよね。しかし残念ながら完璧に予防するということは不可能です。予防の努力をするというまでにとどまります。

その理由として、ご主人も娘さんもそれぞれ意志を持った人間です。妻であり母であるMさんがいくら「このように手洗いして欲しい」と思っても、それを本人たちに強要する事はある程度まではできてもかなり難しいことです。あまりにも言いすぎると本人が拒否することさえあります。子どもの場合、手を洗った瞬間、汚いものを触ってしまったりなど日常茶飯事です。よって例え家族が何かに感染したとしてもそれは誰の責任でもありません。

ではどうしたらよいでしょうか?例えば、娘さんに対しては、手洗いを何度もするようにいうより、「手洗いできたら一緒に遊ぶ」などウイルス騒動で友だちと遊べずにいるお子さんのために一緒に遊ぶことの方がお子さんのためになるかもしれません。

森田先生は「どこまでもあく事を知らない欲望がすなわち完全欲」と言っていますが、完全欲は限界がないので、恐怖のあまり完璧を目指し過ぎるとやがてMさんを苦しめるようになります。やればやる程気になってしまい、やがてMさんの生活を支配するようになります。完全欲の満たされない悪循環に陥るより、どうせウイルスでつらい思いをしているなら、どう工夫したら少しでも面白くご主人やお子さんと過ごせるかを考えるなど発想の転換をしてみてはどうでしょうか?少しでも日々楽しくリラックスして過ごせる工夫をご主人やお子さんと話し合ってみて下さい。
(大久保菜奈子)

「顔の大きさが気になる」 '20.1 

Sさんは顔が大きいことに悩み、そして、顔が今後もっと大きくなるのではないかと不安を感じられているとのことでした。またその後「本当は他人は自分のことを殆ど気にしてないのでは」とも思うようになっていて、真実はどうなのか皆さんの意見を聞きたいと書かれています。

これを読んで、Sさんの不安障害はもう大分よくなられているんだろうなと思いました。なぜなら「殆ど気にしていないのかも」というのは他者の視点から自分を見られるようになってきている証拠ですし、実際はどうなのかと事実を見ようとする姿勢や事実を検討できる力は不安障害を克服するのに何より必要なものだからです。

他人は自分のこと(特に顔のこと)を殆ど気にしていないというのもその通りだと思います。他の方も書かれていたように、集合写真を渡されるとみんな自分を探して、自分がどう映っているかを確認するのです。そして、職場で信頼されるのは小顔な人でも顔のいい人でもなく、誠実にきちんと仕事をする人です。顔に惹かれて恋愛が始まることもあるかもしれませんが、その関係がお互いに心地よく長続きするためには顔以外の要素(お互いの性格や相手に対する思いやりなど)の方がずっと大切です。

Sさんは顔が大きいと何が困るのでしょう。馬鹿にされないかどうかが気になると書かれていましたが、実際はどんな風に自分のことを思ってもらえたらいいなとSさんは思っているのでしょうか。そこにSさんの願いがあるのだと思います。

どういう自分でいたいのか。そしてその願いを具体的にして、実現のためにはどうしていったらよいかを考えてみてください。友達や彼女を作るのは相手もいることなので自分だけのペースでは進みませんが、大事なのは不安をやりくりすることではなく、その元にある願いの実現に向けて今できることに力を注ぐことです。仕事だったら今担当している仕事をしっかりやる、趣味や好きなことがあればそれを楽しむ、評価や人間関係はその後についてきます。
(矢野勝治)

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