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2026年7月

日付今日の一言
7月1日かくの如く無意味に叱るという事は、子供は一方には、叱られる癖がついて、感じがなくなり、一方には、いたずらに反抗心が強くなって、強情になるという弊害がある。森田正馬
7月2日神経質の症状は、注意の執着という事から起こる。無頓着で忘れさえすれば治る。森田正馬
7月3日子どもの養育上についても、一方には、子供の機嫌をとること・すなわち気を紛らせ・その事を思わせないようにする事と、一方には、叱ること・すなわちその事を否定排除しようとする事と、両方とも、注意執着の条件となる事である。森田正馬
7月4日なんでもその人の働きが事実において、偉くなったのが治ったのです。細かい気持の事を、とやかくいうのではない。森田正馬
7月5日普通の人ならば下痢が治って、まだ少々粥食をしていても全治で満足するが、神経質はいくら大食しても決して胃腸を損なわないという風でなければ、全治といわないというようなものです。森田正馬
7月6日すべて物事には、表裏・内外、二通りの見方がある。礼儀作法とかいう事についても同様である。「人に対して、失礼になってはいけない」という事でも、もし自分が、粗野・不作法な事をして、人から軽蔑され、尊敬してもらえぬと困るとかいう心掛けならば、それは実は、身勝手の自己中心的の考え方である。森田正馬
7月7日人に不快を与え・迷惑をかけ・その人の幸福にならぬような事をしてはならないと、注意し心配するならば、それは自己の利害を捨て、人の為にはかるので、利他的の考え方である。これが真の礼儀でなくてはならない。森田正馬
7月8日人に憎まれないようにとすれば、かえって人から愛されず、これに反して、人を喜ばせるようにすれば、かえって自分が、尊敬されるようになって、丁度反対の結果になる。森田正馬
7月9日人が自分にばかり、注意していると思うのは、高ぶった心です。これは赤面恐怖の特徴です。森田正馬
7月10日自分が人前で、ぎこちないではないかと思い、あるいは自分の顔が、いやに引きつれているとかいう事に、注意を向けると、その感じは二倍になる。自分自身の主観的の感じと、さらにこれを観察しようとする客観的の感じとが重複するからである。森田正馬
7月11日自分の脈をとる時には、余計に大きく・早く感じる。他人のは、自分の指先ばかりで感じるけれども、自分のは、これと脈の打つところの皮膚と、二重に感ずるからである。森田正馬
7月12日親鸞上人は「自分は悪人である、罪人である」と決めた。ソクラテスは「自分はなんにも知らない。ただ何も知らないという事だけを知っている」といった。その自覚・自認だけでよい。森田正馬
7月13日そもそも自信とは、どんなものですか。強い人が勝ち、弱い人が負ける、上手の人がよくできて、下手な人が、うまくできない。それが事実であって、その事実をそのままにみるのが、信念であり自信であります。森田正馬
7月14日皆さんは、できない事もでき、強い人にも勝つように、自信というものを作りたいという野心があるのではありませんか。森田正馬
7月15日まず修養には、理屈を捨てて、実行を先にするようにならなければいけない。なんでも実行が先で、尻軽く手を出す事が早くならなければなりません。森田正馬
7月16日我々は人生の欲望に対して、常に念掛け・あこがれながら、その目的を失わず、しかも何かとその現在現在の事柄に対して、力の及ぶ限りのベストを尽くしているのが、「物そのものになりきる」という自然の状態であります。そこに初めて「努力即幸福」という心境があるのです。森田正馬
7月17日理屈を先に立てて、実行をそれにあてはめようとする時に、「思想の矛盾」になり・迷妄になり、事実を先に立てて、これを解説する時に、初めて真理が現われるのである。森田正馬
7月18日神経質特有の考え方で、あまり仕事をすれば、くたぶれる、仕事の忙しい時には、気がハラハラして、落着いてできない、それがいけないというのである。随分無理な話である。働けば疲れ、忙しければ気がもめる。これは当然の事である。森田正馬
7月19日忙しい仕事を、ハラハラしないでゆったりとした落着いた気持でやりたいというのは、丁度ゆっくりした歩調で駆け出そうというのと同様です。駆け足の時には、足に相当して手も早く振らなければならない。それを手を振る事のむだを省こうとしては、かえって足は早く駆けられないのであります。森田正馬
7月20日「生の欲望と死の恐怖」という事は、必ず相対的の言葉であって、同一の事柄の表裏両面観であります。生きたくないものは、死も恐ろしくはない。森田正馬
7月21日気がもめるハラハラするという事は、同時に仕事を多くしたい、能率をあげたいという事である。これは必ず別々に取り離して考えることはできない。物事は常に表裏両面を見なければ、その全体を正しく観察する事はできない。森田正馬
7月22日死の恐怖ばかり見つめて、これにとらわれる時は、常に生の欲望の溌剌(はつらつ)たるもののある事を忘れて、いたずらに迷妄を脱する事ができないようになる。気がもめるという不快気分のみの反面を見る時に、この気分だけを取り除いて、楽に仕事をしようとする迷いの心を起こすようになる。森田正馬
7月23日仕事に対する心のあせりも(略)、そのあせりを取ろうとしては、不可能であるが、ただそのあせるがままに、仕事の能率をあげる工夫にのみ熱中しさえすれば、その間おのずから、あせるという不快の気分を、いつの間にか、忘れてしまっているのであります。森田正馬
7月24日仕事は、できてもできなくとも、どうでもよいというような時に、決して「じれったい」という気分のあるはずはない。仕事の能率と「じれったい」の強さとは、常に正比例して行くものである。森田正馬
7月25日我々は仕事は、粗雑に・滅茶苦茶になっても構わず、できてもできなくとも・どうでもよろしければ、決してハラハラもしなければ・面倒でもないのである。間違いだらけにならないようにと思ってこそ、初めてハラハラもするのである。森田正馬
7月26日薪割(まきわ)りもやってみなければわからぬように、忙しい時に、ハラハラのままにやるという事も、これを実行しなければ、決して机上論でわかるはずはないのであります。森田正馬
7月27日私の教える通り実行して、実際においては、たとえ最上にできたとしても、神経質の際限なき空想的の欲望は、その事実を正しく認識する事ができないで、「もっと楽に、スラスラとできる法はないか」という風に考えたがる癖があるから、いわゆる「迷いの内の是非は、是非共に非なり」であって果てしがないのである。森田正馬
7月28日つまり一口にいえば、「忘れる」という事が、治る事の原理であります。忘れて治ったのであるから、いつの間に治ったのかわからないのが当然であって、今朝忘れたとか只今忘れたとかいえば、それは思い出したので、忘れたのではありません。森田正馬
7月29日仕事の多忙の時も、(略)、ハラハラしないようにと、心を自分のほうばかりに向けずに、ハラハラするまま、ただ一途に仕事を早くする工夫のほうに、心を集中すればよい。森田正馬
7月30日注意すべき事は、無念無想とは、雑念もしくは不快の念慮を拒否せんとする心に対する言葉であって相対的である。すなわち心に起こる考慮に対して、ことさらにこれを深いと感じないのが、無念無想であって、決して絶対の無想念という意味ではない。森田正馬
7月31日雑念とは、例えば特種の草花を作ろうとする時に、その邪魔になる草を雑草と名付けると同様である。もしこれが野にある時には、各それ相当の花もつけるので、かえって捨て難き野の風景である。この時には雑草とはいわない。森田正馬

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