| 日付 | 今日の一言 |
| 1月1日 | 成績優秀になりたいからしたがって読書の苦痛がある。成績などどうでもよいという人に、読書恐怖のあるはずはない。森田正馬 |
| 1月2日 | 自ら欺く事なく、事故を正しく如実に認める事を自覚という。例えば自分は苦痛を回避する気分本位のものである、怠惰であり低能であり、欲望過大であるとかいう事を、自ら省みて、よくこれを承認する事である。森田正馬 |
| 1月3日 | 自覚ということについて、少し注意すべき事は、自覚はただ事故の本性を正しく深く細密に観察認識しさえすれば、それでよいのである。やりくり手段はいらない。ただ認めさえすればよい。森田正馬 |
| 1月4日 | 自分は怠けてはいけない。読書に興味を持たなければならない。人前に出ても大胆にならなければいけないとかいう風に、人間の小知悪知を弄(ろう)する事が最もよくない事である。森田正馬 |
| 1月5日 | 赤面恐怖(今でいう社交不安障害)の人はまず自ら顧みて、自分は成功したいとか立派な人間になりたいとかいう気があるかないかという事を自覚すべきである。森田正馬 |
| 1月6日 | 読書恐怖のような苦しみ(成績優秀なのに読書が苦痛)に対して、あまり気早くけなす事を遠慮しつつ、なるほどやっぱり苦しいかなあとお互いにしばらく考え合うだけの時間と余裕と思いやりとがあってほしいものである。森田正馬 |
| 1月7日 | 私共は、善意の批判をやめ、いわゆる理想主義を仮に中止して、ただ我々の日常の事実を内省すれば、自然に自分というものが、しだいに明瞭になってくる。森田正馬 |
| 1月8日 | この精神緊張とか注意を四方に配るとか、自分の精神をやりくりしようとするのが、精神修養家の最も陥りやすい誤りであり、それは最も難しく、かつ不可能の事ではありませんか。森田正馬 |
| 1月9日 | 馬鹿げた事とは理論であって、心の事実は身の毛もよだつのである。森田正馬 |
| 1月10日 | 自分は対人恐怖、すなわち恥ずかしがりやで、正々堂々と、やって行けるような大胆者ではない、気の小さい見栄坊であるという風に、自分自身になりきってしまえばいいのです。森田正馬 |
| 1月11日 | 従順とは、自分では訳のわからぬまま、信ずる人のいう事を、試みに実行する事であります。自分に理由が納得され、なるほどそれに相違ないとわかって、後にする事は、従順とは申さないのであります。森田正馬 |
| 1月12日 | 元来、神経質は理屈から出発して、自分でとうぜんこうあるべきものと決めれば、人情をも没却して、押し通してしまい、ずいぶん無理な事をもするようになる。森田正馬
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| 1月13日 | 強迫観念というのは、心の悩みに名付けたものである。(略)。その心の悩みというのは、例えば自動車を買いたいけれども、買う事ができないということ、これを悩みと感ずれば、強迫観念になるけれども、これを当然の事と思えば、悩みではない。森田正馬 |
| 1月14日 | 神経質の人の考え方の特徴として、それを自分でできない事と、理論的に独断してしまうのである。森田正馬 |
| 1月15日 | 神経質の患者で理論にとらわれてしまう時には、勉強も欲ばりもすべて放棄してしまう事がある。すなわち私もいわゆる純なる心、自然の心を没却して、思想の矛盾に陥るのであります。森田正馬 |
| 1月16日 | 赤面恐怖(現在の社交不安障害、対人恐怖などと言われることもあります)でいえば、人に笑われるのがいや、負けたくない、偉くなりたい、とかいうのは、みな我々の純なる心である。理論以上のもので、自分でこれをどうする事もできない。森田正馬 |
| 1月17日 | 神経質も一、二年で治しては価値がない。長い年数苦しんだ上で、治したところに価値がある。森田正馬 |
| 1月18日 | 今この不快の気分を単に忍受(にんじゅ)するという風ならば、そのままに水の泡の消えて行くように、その不快は去るけれども、この不快はやりきれない、なんとか楽になる工夫はないかと考えるときに(略)、その不快の気分を増して行くのである。森田正馬 |
| 1月19日 | 赤面恐怖ならば、気を大きくしようとすればするほど苦しい。自分は恥ずかしいものであると思えばすぐ治る。森田正馬 |
| 1月20日 | よいとか悪いとかを離れて事実を認めるのです。森田正馬 |
| 1月21日 | あなたが字がうまくまだ書けない、もっとよく書ける様になりたい、その事実を認めればよい。森田正馬 |
| 1月22日 | 禅に初一念(しょいちねん)という事があるが、初めにハッとしたその感じに従うのである。森田正馬 |
| 1月23日 | 恐ろしいならば恐ろしいままの心、恐ろしくないならば恐ろしくないままの心、それが平常心である。よく「なりきる」ということをいう。森田正馬 |
| 1月24日 | 「苦楽共存」という言葉があるが、苦楽は「あざなえる縄の如し(ごとし)」ともいい、互いに関連して、取り離す事はできないものである。森田正馬 |
| 1月25日 | 今日は終日悲観しながらも、一人前働いたという時に、悲観したからだめだというのを気分本位といい、一人前働いたから、それでよいというのを事実本位というのであります。森田正馬 |
| 1月26日 | 禅と僕のところ(森田療法)との相違は、禅では坐禅で坐っていて、ユートピアとか、平常心是道とか三昧とか、自分自身の気分の中に、それを得ようとする。私のは、それと全く違う。気分を根本的に排斥して、日常生活の実際に、ユートピアを得ようとする。森田正馬 |
| 1月27日 | 人は強いて善をしようとするから常に偽善になる。自分のなすべき道というのではなく、人の苦労が気の毒さに手伝ってやれば、初めて心が外向的で、自分が事その事になりきり、自己内省を忘れている。これが本当の善そのものである。森田正馬 |
| 1月28日 | 寒いときに寒がり、苦しいときに苦しがると同様に、病気の時に心配するのは当然であります。森田正馬 |
| 1月29日 | 「欲しがる事をやめる。あきらめる」という事は、まだ欲しくてたまらぬという事実であって、ただ仮に思想をもって、試みにこれを否定して見るにとどまるのであります。森田正馬 |
| 1月30日 | 寂しくなったり、不安になったりするのは、当然の原因がある。しかも自分はこれを見つめようとせず、素直にこれに服従しようとしないから、自分でこれに気がつかないのである。森田正馬 |
| 1月31日 | 憂鬱や絶望を面白くし、雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが、不可能の努力であって世の中に、これ以上の苦痛な事はない。森田正馬 |