| 日付 | 今日の一言 |
| 10月1日 | 神経症の患者は心配しないようにしようとするほどますます気がかりになり、気を紛らせようとすればますますその方に気が乗らないことを悲観する。心配してはますます病気が重くなると思って心配する。森田正馬 |
| 10月2日 | 患者はその苦痛なり恐怖なりを逃れよう、それに勝とう、否定しようとしてはいけない。それでは神経質がますますその苦痛にとらわれ、心の葛藤を盛んにし、症状を複雑にする手段になるのである。森田正馬 |
| 10月3日 | たとえばときどき発作的に心悸亢進を起こし、死の恐怖の不安に襲われることがある。この場合にもこれをじっとそのまま我慢していなければならない。普通は医者を呼んで注射するとか、氷嚢をつけるとか大騒ぎする。(略)。注射などをしてはいけない。やはりその「あるがまま」でなければならない。森田正馬 |
| 10月4日 | 強迫観念ということについて必要な条件は、ある感じまたは考えに対して、感じまい、考えまいとする反抗心があることであって、この反抗の心がなければ、それは強迫観念ではない。(略)この反抗の心さえ没却すればすでに強迫観念はなくなり、煩悩は消失するのである。森田正馬 |
| 10月5日 | 強迫観念の患者は、つねにある特殊のことについて、それを感じ思わないようにしようとするために、そのことに対してつねに恐怖に駆られるようになる。森田正馬 |
| 10月6日 | 普通神経質は自分で恐怖のために起こるものとは気がつかず、たんに自分の苦痛または病的異常に直接に執着し心配するものであるが、強迫観念は自分で恐怖ということを知り、これを自ら馬鹿げたことと思想し、その恐怖を恐怖すまいと恐怖するこんがらがった精神の葛藤である。森田正馬 |
| 10月7日 | 心の調子が狂って自分の赤ん坊を踏み殺すことはないかという恐怖や、自分の妹を空気銃でうつようなことがあっては大変との恐怖など(略)普通の人はそのままに思い流していくけれども、強迫観念はこれを恐怖するために(略)精神交互作用によってますますこれに執着するようになる。森田正馬 |
| 10月8日 | 思想の矛盾とは、かくあるべし、あらざるべからずと思うことと、事実すなわちその予想する結果とが反対になり矛盾することに対して、私(森田正馬)が仮に名づけたものである。(略)。思想によって事実を作り又は事実をやりくりし、変化させようとするために、しばしば矛盾が起こるのである。森田正馬 |
| 10月9日 | われわれに対して苦痛な事情があるものは、当然苦痛である。われわれの生活に対して重大なる関係のあるものほど、その苦痛も大きく、且つ、長く持続するものであるということは、われわれの感情の動かすべからざる事実であって、直接に思想でもって何とも変化することはできない。森田正馬 |
| 10月10日 | 便所に行くとか、何か穢いものに触ったと思うときには、その手をどこまでもきれいに洗ったうえにも洗わなければ、手に不浄が残っていはしないかという不安の気分が苦しい。患者はこの気分本位に従うから、理智では明らかにそんなことはないと知りながらも、事実本位としてその事実に柔順になることができない。そのいやな気持ちをなくそうとするために、むやみに手を洗うようになる。森田正馬 |
| 10月11日 | 神経質は(略)本来、欲望が大きいものである。強迫観念やその他神経質の種々の症状はこの欲望のために起こったものである。ただこの症状を起こしたものは、もっぱらその恐怖にとらわれるために(略)人生に対する欲望を捨ててしまったように見えるだけのものである。森田正馬 |
| 10月12日 | しばしば患者は「つまらないことを考えないようにしたい、いやな考えを起こさないようにしたい」と工夫し、努力し、苦痛懊悩する(略)。物に触れ、事に接して、ある感じが起こり、考えが湧き出るということは、生きている間、けっして否定することのできない事実現象である。森田正馬
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| 10月13日 | およそわれわれの主観と客観、感情と智識、理解と体得とは、しばしばはなはだ矛盾撞着(むじゅんどうちゃく:つじつまの合わないこと)することがある。けっしてこれを同一視して考えるべきものではない。この区別を明らかにしないために、私のいう思想の矛盾が起こるのである。森田正馬 |
| 10月14日 | そもそも思想というのは、事実の記述、説明もしくは推理であり、観念は事物の名目もしくは符牒(ふちょう:特定の集団、仲間内だけで通じる特殊な言葉、記号)にほかならない。また、たとえば鏡に映る影のようなものである。この映像が観念、もしくは思想である。すなわち観念ないし思想は、つねにそのままただちに実態もしくは事実ではない。森田正馬 |
| 10月15日 | 体得とは、自ら実行、体験して、その上で得た自覚であって、理解とは、推理によってこうあるべき、こうでなくてはならないと判断する抽象的な知識である。ところが、最も深い理解は、具体的に体験によって会得したのちに生じるものであって、たとえば食べてみなければ物の味を知ることができないのと同様である。森田正馬 |
| 10月16日 | 強迫観念は、不潔であれ、赤面であれ、まずこれを感じないように、考えないようにしようとすることから始まり、自己の感情を普通論理によって圧服排除しようと努力し、ますます自己の微細な心情を詮索し、それに対する種々の手段を講じるものであって、つまり誤った判断から発展したものである。森田正馬 |
| 10月17日 | 精神活動のうちで、われわれの思い通りになるものは、ただわずかに能動的注意による目的観念に対して、観念の自然連合を選択することができるにとどまる。この自然に起こる観念連合は、時と場合に応じていついかなる考えが浮かび出るものか、予定することも制限することもできず、まったく神出鬼没である。森田正馬 |
| 10月18日 | 強いて忘却しよう、睡眠しようとあせったり、あるいは精神活動を抑圧しようとすれば、かえってますます精神の反抗作用を起こし、考慮の葛藤を生じて、その目的と反対の結果をきたすようになるものである。森田正馬 |
| 10月19日 | 思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然それを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然それを苦痛、恐怖し、煩悶はすなわちそのまま当然それを煩悶すべきなのである。森田正馬 |
| 10月20日 | およそ神経質の症状は、注意がその方にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は患者の自然発動を促し、それによりその活動を外界に向かわせ、限局性の注意失調を去らせて、結局それをこの無所住心の境涯に導くことにあるのである。森田正馬 |
| 10月21日 | 神経症の患者は、たとえば根笹の一局部を掃除して、そこがきれいになれば他の部分が汚く見えて、ついでにあれもこれもとしだいに発展し、(略)些細なことでもますます完全に、それを成功させようという感情が起こるようになる。これはいわゆるわれわれの完全欲であって、(略)あの強迫観念が発展するのも、じつはこの完全欲から起こるものである。森田正馬 |
| 10月22日 | 純な心は、(略)、善悪、是非とかいう理想として予め定めたものを没却して、拘泥のない自分自身になったときにはじめて体験されることであって、この療法の進行中にしだいしだいに会得されるところである。森田正馬 |
| 10月23日 | 本療法(森田療法)の着眼点はまず第一に、その複雑な精神の葛藤を去って、それを単純な苦痛もしくは恐怖に還元することにある。すなわち患者に対して、「たんにそのあるがままに忍耐すべし」とか、「苦痛、恐怖を否定するとか、それを避けようとし、気を紛らすとか、忘れようとするとかしてはならない」という精神的態度を教えて、実行する手段を教えるのである。森田正馬 |
| 10月24日 | われわれは物に触れ、事に接して、それに対するある行動を抑制することは可能であるけれども、それに対して感じない、もしくは思わないということは不可能である。われわれは人に悪口されて、腹を立てないことはできないけれども、喧嘩しないで、それを抑制することはできるのである。森田正馬 |
| 10月25日 | 理論から出発して自己の心境をそこに当てはめようとすれば、思想の矛盾となり、悪智となるのであるが、ある実際の体験もしくは私のいう「純な心」から出発して、正しくそれを叙述、批判することができたならば、それが良智である、ということが分かるかと思われる。森田正馬 |
| 10月26日 | (強迫症の)患者は、自然に徐々に、恐怖に対する自信と勇気をとを獲得するようになるものであるけれども、少なくとも一度は恐怖の内に突入するという心境を得て、はじめて再発のない治癒を得るものである。森田正馬 |
| 10月27日 | 一般神経質ないし強迫観念の患者のなかには、往々にしてこの療法を終わって全治退院する頃にも、家に帰ってからその後不安なく、十分に勇気をもって活動していけるかどうかということを心配するものがある。そのようなときに、常に患者は必ずその自信とか勇気とかいうものを棄てなければならない。森田正馬 |
| 10月28日 | 患者は、すべて自分の病に関する恐怖心を根絶して、完全に安心な心持になろうと努力するものであって、その心は、たとえばわれわれが安逸、歓楽を追求すればするほどますます意のままにならないで、いよいよ失望、悲観に陥る結果となるようなものである。森田正馬 |
| 10月29日 | 人は自然に帰れば、冬は寒く、病は恐ろしく、不潔は厭わしく、人に対しては羞恥を感じるべきである。人情の本に帰れば、そこに強迫観念があるはずはない。強迫観念は、冬を暖に、夏を冷に感じようという欲望を逞しくするものである。森田正馬 |
| 10月30日 | 赤面恐怖は常人以上に衆人の前でも怖めず臆せず(おめずおくせず)、大胆になろうとする分外の欲望から起こる、とかいうようなものである。森田正馬 |
| 10月31日 | 強迫観念は、必ず常に執着から起こるものである。執着とは、事物の全体を見ないで、その一面のみを見るからである(略)。欲が大きければ、心配も大きい。患者はその欲を捨てないで、その苦痛を否定しようとする。希望に対する快楽を無視して、努力に対する苦痛のみに執着するのである。森田正馬 |