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2025年9月

日付今日の一言
9月1日とらわれは無理な完全欲から起こりやすい。常に最上のコンディションを持っていなければならぬと心得るから、常に何か心身の不都合なところを問題にして、それにとらわれる。森田正馬
9月2日対人恐怖の場合、人に逢って、少しも気おくれしないように、固くならないように、圧迫感を受けないように念ずるから、事実に裏切られて、いよいよ症状を強く感ずるのである。むしろはじめからそういうのは人の人情と心得て、素直に受け入れてゆくのが正しい態度であり、とらわれのないやり方である。森田正馬
9月3日対人恐怖もあるのが常態と心得て、素直に対人恐怖でもなんでも感じながら、ビクビクハラハラのままやっていくだけである。平気になろうとも何ともしないから、葛藤もなくちょっと対人恐怖を感じても、いつの間にかすっと消えてしまう。森田正馬
9月4日対人恐怖症の人は人と対立的になっていることが多い。人に対して勝つか負けるかという態度であれば神経質になる。(略)対立的でなく、人からなんでも学んでゆくというような態度であれば、人も喜ぶし、自分も得るところが多く、人と融合して圧迫感を感じない。話し上手になるより、むしろ聞き上手になるように心掛けるがよい。森田正馬
9月5日対人恐怖症の人は内向的態度の人に起こりやすいものである。内向的な人は、進んで自分の能力を発揮することよりも、いつも自己防衛の方に心を使っている。森田正馬
9月6日対人恐怖症の人は内向的態度の人に起こりやすいものである。(略)細心、要慎深いこと、真面目なことなどは長所であるが、自己中心的に心身のことばかりに注意をむけているので、普通誰にもありふれたことを自分ばかり特別な病的なこと、あるいは自己保存上非常に不利なことのように感じて、神経質症状を起こしやすいのである。森田正馬
9月7日対人恐怖症の人は内向的態度の人に起こりやすいものである。(略)人と話の内容に気を向けずに、自分の顔面の感じに注意を向けているので、少しでもほてった感じがすると、もう真っ赤になったと思い込みそれが恥ずかしいので、そのため本当に赤くもなるという調子になる。森田正馬
9月8日神経症を治すには一つ一つの症状を治そうとせず、生活全体を積極的に推進させて、毎日することが多くて、忙しくて一日が短い、というような生活をするようにするのがよい。生活の外交化はどしどし仕事をするに限るのである。森田正馬
9月9日赤面恐怖の患者:私は毎日上野の図書館へ行きます。赤くなるが、先生の「堪えよ、突入せよ」をモットーとして、赤くなろうが青くなろうが堪えます。今では恐怖はしません。
9月10日負け惜しみはすなわち勝ちたがりということである。日々に且つ工夫と、修養とを積みさえすればよい。人間は貧乏でも構わない、負けても平気である、という事になれば、これをズボラのならず者と称する。われわれはますます負け惜しみの心を発揮していかなければならないのである。森田正馬
9月11日対人恐怖患者:近頃の睡眠は五時間ないし五時間半である。これまで、睡眠を量的に十分しなければ身体が疲れるとて、十二時間も眠ったことが、おかしくなる。普通の惰眠時間をいかに有効に使いえるか、と考えると愉快である。
9月12日訥弁(とつべん:言葉に詰まってしまうこと)を治すことをやめて、必要なことを言い現す工夫だけすればよい。必要に迫られなければ、なるべく無言の方がよい。「沈黙は、最も大なる雄弁である」ということわざさえもあるのである。必要に応じては、手じな身振りで、啞(あ:ものが言えない人)さえも話をするのである。森田正馬
9月13日対人恐怖患者:森田先生のお話を聴いても、学校で修身の講義を聴くように、意味はよくわかっても少しも自分には感じなかった。この頃はお話を聴くと、ちょっと言い現せないが、何らかの感じが伴い、共鳴とか、反響とか何のはからいもなく、心に湧いてくるのである。
9月14日対人恐怖患者:私の対人恐怖はまだまだ良くなっていません。現在は百分の一くらいは良くなったかと思われます。帰りの汽車の中で、なぜ全治するまでいかなかったと、大変後悔しました。(略)入院の二か月をあまりに放縦に過ごしたことを悔いました。もしあの時に、もっと規則を真面目に守ったならば、今頃はどんなによくなっているんだろうと残念でなりません。
9月15日欲望と苦痛とは、相関関係であって、けっして別々に考えることはできません。(略)出世したいという欲望がなくなれば、けっして強迫観念の苦痛のなくなる時節はありません。安楽に静養すれば治ると思うのが、常識的な大間違いです。一般には、これを治そうとする方法をする間は十年でも二十年でも、けっして治ることはありません。森田正馬
9月16日われわれが試験勉強をする。昨日の試験の点数が気になり、明日の問題が気にかかる。現在読んでいる本が、どこを読んでいるかわからない。気にしないようにしようとする。ますます気になる。本のほうに集中しようとする。いよいよ注意が散乱する。この心の反抗の状態が、すなわち強迫観念である。森田正馬
9月17日神経質の症状は、すべてが苦痛ではなくて、想像、取越苦労であり、煩悶なのである。この取越苦労がなければ、すなわち強迫観念はない。森田正馬
9月18日対人恐怖なり、その他の強迫観念なりの人は、(略)まず自分の恐怖ということとは別に、この強迫観念の意味を充分に、簡単、明瞭に会得しなければならない。はじめから自分の苦悩に執着して、これに当てはめようとしては、けっしてわからないのである。森田正馬
9月19日恥ずかしいということは何を意味するか。それは、人から嫌われないように、好かれたい。劣等のものと思われず、偉いものと見られたい、という感情である。いいかえれば、人から良く思われたい欲望で、すなわち同時に悪くは思われはせぬか、という恐怖である。森田正馬
9月20日患者はまず自分自身の本心に立ち帰らなければならない。神経質の自己内省的気質の特徴を発揮して、深く自分自身をみつめ、自覚しなければならない。すなわち自分は小胆、怯懦(きょうだ)であり、何かにつけて人に劣るものである。ということに徹底し、なりきらなければならない。森田正馬
9月21日われわれは生まれようと欲して生まれたのではない。生死の目的は、生命そのものである。もとよりわれわれは快楽をむさぼるために生まれはしない。何でも苦にすれば、一挙手も苦しい。苦にしなければ、何でもない。森田正馬
9月22日「平常心」という文字から察すれば、それは「自然の心」という意味ではなかろうか。死は恐ろしい、電車の中で今にも死にはしないかと思うときは、当然不安である。そのあるがままの心が、すなわち平常心ではあるまいか。森田正馬
9月23日自分の気分や想像で「治った」とか「よくなった」とかいっても、そんなことは問題になりません。ただ、実際に治ったという事実が大切です。体重が増えたとか、終日よく働くようになったとか、気転がきくようになったとかいう事実を観察して、初めて「治った」ということが決まるのであります。森田正馬
9月24日神経質の人は褒められるとお世辞ではないかと疑い、また褒められるに値するだけのことがあったとしても褒められる以上の責任を感じ、なおその上にもし将来、その期待に反するようなことがあってはかえって信用をおとすことになる、と先々のことまで取越苦労をするのであります。森田正馬
9月25日神経質の人は、私が「全治した」といっても、「本当に治ったのかしら。また再発するのではないか」などと心配します。十の症状が八よくなっても、残りの二つを言い立てて、まだ治らないと主張し、けっしてその治った方を喜ぶということをしないのが特徴であります。森田正馬
9月26日私の神経質の療法は、皆さんもご承知のように神経質という気質の特徴を発揮させるのが主眼でありまして、その動機となった第一印象を取り除くとか、劣等感をなくすとかいうことではありません。むしろそのねらいは劣等感を徹底し、発揮することにあるのです。森田正馬
9月27日神経質の人はどちらかに決めないと気持ちが悪いという傾向があります。机の本のうえもキチンとなおすかなおさないか、電車の中の美人も見るか見ないか、どちらかに決めないと気がすまない。中途半端なことができないのですね。森田正馬
9月28日素直な人は非常に早く治ります。柔順ほど安楽なものはありません。やってみないうちから屁理屈をいって、抗議を申し込む必要は少しもありません。素直と強情とのちょっとの差が治ると治らないの雲泥の開きを生ずるのであります。森田正馬
9月29日森田先生の教えによりますと書痙(しょけい)は震えるままに書けばよいと言われます。これはきわめて簡単で金がかかりません。(略)震えるままに書いていると、どうやら書ける。これによって書痙が神経質の症状であることがわかります。森田正馬
9月30日どもり恐怖の人に、思い切ってどもるように私が教えるのは、たとえば自転車に乗ることを人に教えるときに、まず倒れる練習をさせるのと同じねぎらいであります。(略)どもり恐怖の人も、どもることを恐れずに、大胆になりさえすれば、すぐにどもることがなくなるのであります。森田正馬

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