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2025年5月

日付今日の一言
5月1日平等観ができず、世の中の事実、すなわち真理に服従するということの精神修養のできないものは、いたずらに目前の感情に支配されて、人に打ち明けることはもとより、自分で考えることさえも恐れるようになってくる。森田正馬
5月2日すなお・従順・「はからわない心」というのは、「自然に服従し、境遇に柔順な心」である。
たとえば、親や先生から命じられることは、それを無理だと思い反抗的な気分がおこっても、とにかくためしに命じられるとおりにやってみることである。森田正馬
5月3日自分は従順でなくてはならない、不平の心をおこしてはならない、信じなくてはならないなどと、自分で自分の心をやりくりし、直そうとするのを「思想の矛盾」といい、強迫観念の原因にもなるのである。森田正馬
5月4日腹立ち、不平、疑惑などは、われわれの心に折にふれて当然おこる感情であるから、その感情のままにあるのを「自然に服従する」といい、親のいましめにいやいやながらも従い、職業上やらねばならぬことをいやいやながらも実行するのを「境遇に柔順である」ということである。森田正馬
5月5日私はかねて若い人にたいして「自然に服従し境遇に柔順であれ」と教えているが、自分の身分や境遇に順応して、それに素直に服従し努力するのが、私の言うところの「事実本位」の生活であり、実際主義、力行主義、ほんとうの意味での自然主義である。森田正馬
5月6日ヒポコンドリーとは心気症すなわち疾病恐怖のことであって、これは人間の本性である生存欲の現われである。
これはだれでもみなもっている性情なのだが、その程度がはなはだしいと精神的傾向になり、変質となって、ますます神経質の複雑頑固な症状を呈するようになるのである。森田正馬
5月7日神経質の各症状は身心の疲憊(ひはい)その他の合併症がないかぎり、本来主観的なものであって、他覚的なものではない。
そのため、その症状は常に頭痛、眩暈がする感じ、注意が散乱する感じ、多夢、不眠の感じなど、主観的な言葉で表すのが妥当である。森田正馬
5月8日神経質のほとんどすべてに必ず見られる特徴として、「他人から見れば、病人らしくも何ともなくても、自分では堪えがたい苦痛に悩まされている」と訴えるのは、それがたんに主観的なもので実態のあるものではないという証拠でなくて何であろう。森田正馬
5月9日患者によっては「自分のように重い苦悩があるのは、けっして類を見ないだろう」などといったりする。
私はそれに対して「そんな苦悩をもっているというのはこの世で最も不幸、悲惨なことだ。
けれど、もし普通の人にそれだけの苦悩があったら、ほとんど立っていることも、ものをいうこともできないだろう。」森田正馬
5月10日患者によっては「自分のように重い苦悩があるのは、けっして類を見ないだろう」などといったりする。
(略)「人並に応対もし労働もできるということは、この世で最大の勇者でなければならない。
つまり、最大の不幸者は同時に最大の勇者ということになる。
その自ら不幸をかこつ心を、そのまま勇者の自信と歓喜の心に置き換えられるかどうかは、そこに間一髪の差しかないのだ」などと言ったこともある。森田正馬
5月11日精神交互作用とは、われわれがある感覚にたいして注意すれば、その感覚は鋭敏になり、そうして鋭敏になった感覚はさらにそこに注意を固着させ、この感覚と注意が相まって交互に作用することによりその感覚をますます強大にする、そういう精神過程を名付けたものである。森田正馬
5月12日強迫観念にしても、その始まりは、常人にも当然あっておかしくない現象を自ら異常で病的な苦痛と考え、恐怖を起こし、予期感動を伴うことから、精神交互作用によって症状を増悪させるのである。森田正馬
5月13日神経質患者の頭重や不眠や強迫観念のようなものは、みなもとは常人の普通の感覚、感想が患者の病的誤想によって自己暗示的に固着した信念である。森田正馬
5月14日神経質患者は、不眠を恐れるため、夢を熟睡できなかった証拠として常に注意がそこに傾注されるため、たくさん夢を見ると感じるのである。森田正馬
5月15日思想の矛盾とは、こうありたい、こうあらねばならないと思想することと、事実、すなわちその矛盾に対する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名付けたものである。森田正馬
5月16日神経質者がつねにその症状を家人に訴えるのは、自己の苦痛を周囲の人に理解させ、同情を求めて、いたわってもらうためであって、そのため患者はかえってその苦痛を増悪させるものである。森田正馬
5月17日寒いときは、そのままに寒い寒いになりきり、暑いときはまた暑いことにそのままになりきるという意味であって、この時初めて寒さも暑さも忘れてしまう。
これがわれわれの「自然に服従する」ということである。森田正馬
5月18日朝寝して過ごして頭が重く、食いすぎをして胃の不快を覚え、驚いて心悸亢進を起こすなどのようなことも、みな自然の法則に支配されるところであって、因果の理法であることを免れないのである。
すなわち、いずれも自分の都合のよいようにばかりはできない。
自然に服従するよりほかに仕方がないのである。森田正馬
5月19日思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然それを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然それを苦痛、恐怖し、煩悶はすなわちそのまま当然それを煩悶すべきなのである。
いたずらに人工的な拙策を弄してはならない、ということに帰着する。森田正馬
5月20日感情の法則の第一、感情はこれをそのままに放任し、もしくはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、一昇り一降りして、ついには消失するものである。森田正馬
5月21日煩悶とか煩悩とかいうものは、自分が欲しい、したいという欲望に対して、自分の身のためにならない、道義にそむくとかいうことから、それを否定し抑圧しようとする心から起こるものである。森田正馬
5月22日神経質の不眠症は、不眠への恐怖から起こるものであって、実際の不眠ではない。そもそも睡眠は精神活動がなくなり、無念無想となり、無意識の状態となったあとで起こるものであるから、患者が自ら眠ろうと努力して精神がますます緊張し、精神活動がいよいよ盛んになり(略)ますます眠ることができないようになるのは理の当然である。森田正馬
5月23日神経質患者は睡眠不安を苦慮するとともに、多夢を気にするものが多い。これも同じく恐怖のために、つねに夢に注意を傾斜するためである。われわれは眠りの浅いときには、いつでも夢をみているものである。夢を見ないという人と、多夢を訴える人の相違は、ただそれに注意するのと無頓着なのとの差である。森田正馬
5月24日神経質患者は、読書するにも常に理解、記憶が悪くなったとか、精神が散乱して注意を集中できないとか訴えるものである(略)ただその価値を意識するのと完全欲のために、最も有効に読書したいという予期感情から起こることで、患者は読書するにも心は常に現在のことに集注しないで、自分の気分を測量したり、その先々のことを考えたりするために、気が焦っているのである。森田正馬
5月25日私の治療中は、患者に純な心、自己本来の性情、自ら欺かない心とかいうものを知らせるように導くことに注意する。純な心とはわれわれ本然の感情であって、この感情の厳然たる事実をいたずらに否定したり弥縫(びぼう)したりしないことである。森田正馬
5月26日書痙でも眼精疲労でも、みなそれぞれの仕事に、反抗の態度をとるから起こることである。(略)仕方がないと覚悟して、書けないのは書けない、くたびれるのはくたびれる、どうもしかたがないと、素直に自分の境遇に柔順であれば、それらの症状はいつとはなしに治るのである。森田正馬
5月27日時間がたてば腹が減り、ご馳走を見れば食べたくなる。これが「感じ」である。そのときに今日は下痢をしているからとか、人前で行儀悪くすると、笑われるとか考えるのが理知である。この「感じ」と理知との調節によって、人はその行ないが正されてはじめて理想にかなうようになるのである。森田正馬
5月28日われわれの日常生活は、実際において、まず第一に時と場合とにおける「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起こる時に、それに対して、理智により、理想に従って、自分の行動を調節していくのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。森田正馬
5月29日修養の第一の出発点は、物事に対する「感じ」を高めていくことである。われわれは、見るもの・聞くもの何かにつけて、ちょっと心にとめていれば、必ず何かの「感じ」が起こる。(略)反対のものは「感じ」に対する理屈である。森田正馬
5月30日神経質に起こる千変万化の症状は、みな実は精神的な執着から起こるもので、本来けっして実質的なものではない。ただ、その判断の錯誤・心の迷妄によって、どんな重い症状でも起こりうるのである。森田正馬
5月31日精神修養家などはよく「自分は勝つ」という自信を持つとか、精神を統一して錯乱させないとか、いろいろのことをいいますけれども、私はそんな教え方が気に入りません。みな「思想の矛盾」になります。森田正馬

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