日付 | 今日の一言 |
---|---|
1月1日 | わたしは神経質の本態に対して、ヒポコンドリー性基調および精神交互作用というものを立て、神経質はいたずらに病苦を気にするという精神的基調から起こり、注意はつねにそのある一定の感覚に集中し、注意が深くなれば感覚も鋭敏になり、感じが強ければしたがって注意もこれに集中するようになって、次第にその異常感覚を増悪していくものであるというふうに説明するのである。森田正馬 |
1月2日 | 「たとえばここに記憶がなくなった、何事にも興味を失ったと訴える患者がある。それは無くなったのでない。変化したのである。 注意の配分が違った。心の置き所が変わったのである。 その人の趣味、道楽が自己の病の観察と追求とに変わって、注意はその方にのみ没頭するようになったからである。(略) このような患者は、感覚の鋭敏度や、注意力や記憶力や作業能力やこれを実験心理学的に測定すればけっして健康人とは異なるところはない。森田正馬 |
1月3日 | 神経質のおもしろいところは、自分の現状を悦ぶことに少しも気がつかず、悲観する工夫の非常に上手なことである。 仕事は相当にでき、学校の成績は良くとも、そんなことはどうでもよい。こんなに頭が働かず、気力と興味がなくては仕方がない。 ただ人生は苦しいばかりである。森田正馬 |
1月4日 | 患者は苦痛は苦痛、事実は事実と、これを正確に判断し批判することができない。ただ自分の苦痛と恐怖の内に閉じ込められているばかりである。森田正馬 |
1月5日 | 神経質は病でないある感覚に執着してこれを病と迷妄する病であるから、その執着を去りさえすればよい。(略) 知識の思い違いは容易に解決することができるが、思惑すなわち感情の執着はあたかも蓮の茎を引き切るときに白い糸を引くように、なかなかサッパリと思い開くことのできないものである。 したがってこれは理知的に治るものではない。 感情が自然にその通りにならねば治らないのである。森田正馬 |
1月6日 | ここに苦痛、恐怖がある。 これに対して苦痛を忘れよ、取越苦労をやめよ、心配するな、勇気を起こせといったって、それはただの屁理屈である。 患者の身になって実際にそんなことはできるものではなく、患者はいたずらに心配を心配しないように心配して、心も取り乱すかのように苦しくなり、ますます心の葛藤、煩悶を増すばかりである。森田正馬 |
1月7日 | 神経質は一種の素質であって、生まれつきの気質である。その気質は自己内省が強くて、つねに自分のことを顧みるものである。 走ってもただ向うばかり見ているのではなく、つねに自分の足元に気をつける。 少し身体に異なった感じがあってもすぐにその方に気がつく。森田正馬 |
1月8日 | 神経質でも、自分で気が向いたことをする間は、自己内省の暇がなくて、頭痛のことを忘れている。 「忙しくて患う暇がない」というのもこのことである。 自分の感じに気がつきやすいために、したがって些細な苦痛や病気を気にするようになる。 すなわち神経質は気病なのである。森田正馬 |
1月9日 | 神経質の素質による長所は、種々挙げることができるけれども、これにとらわれて病的になるときには、これがことごとくその短所となって現れるのである。森田正馬 |
1月10日 | 神経質の患者がよくこぼすことであるが、人が誰も自分に思いやりをしてくれぬ、自分を理解してくれる人がないという。 実は自分が人に理解してもらいたいのは、自分に都合のよい事柄に対してのみであって、何もかも自分の全部を見透かしてくれては大変である。 皆、貪瞋痴(とんじんち:人間のもつ根本的な3つの悪徳のこと)から起こる愚痴である。森田正馬 |
1月11日 | 強迫観念の患者が、この苦しみばかりは耐えられないが、他のことならどんなことでもけっしていとわないと真面目に訴える。 一つの靴に堪え得ないものは、どんな他の苦痛にもけっして堪えられるものではないということを知らない。森田正馬 |
1月12日 | 神経質者が、独断で、自ら耳が過敏であるというのは、自分のたてる音や、気に入った騒ぎには平気であって、他の音がやかましいということである。 私はこれを仮性過敏と名付ける。 神経質がつねに自己中心的であるということの一つの現われとして見ることができる。森田正馬 |
1月13日 | 欲望も恐怖も主観的な語である。 自分自身だけが感じ得るある気分を総括的に言い現したものである。 この気分から発動して営々の努力となり、生命を脅かすものに対する拒否となる。 生きとし生けるものの絶えざる活動や、死に臨んで、もがき輾転反側するありさまは生物における客観的な現象としてわれわれの観察するところのものである。森田正馬 |
1月14日 | 客観的な現象に対して、これを生の欲望と名付け、死の恐怖と称するものは、たんにわれわれの考察をもって類似により、自分と比べて推測したにすぎない。 すなわちこの客観と主観とはつねに必ずしも相一致するものではない。 否、むしろしばしば反比例することの多いものである。森田正馬 |
1月15日 | 生の欲望と死の恐怖とは、上下大小や有無、生滅や迷悟、善悪などと同じく相対的なものであって、上がなければ下もないように、生の欲望がなければ死の恐怖もない。 絶対的な有無もなければ、絶対的な死の恐怖というのもない。これを相対性原理によって説明すると最も理解しやすい。森田正馬 |
1月16日 | 私の神経質の療法は、皆さんもご承知のように神経質という気質の特徴を発揮させるのが主眼でありまして、その動機となった第一印象を取り除くとか、劣等感をなくすとかいうことではありません。 むしろそのねらいは劣等感を徹底し、発揮することにあるのです。森田正馬 |
1月17日 | 生の欲望が大きいほど、ますます死の恐怖も大きく、生の欲望がますます少なくなるに従って死の恐怖もいよいよ少なくなってくる。 死の恐怖のはなはだしいのは生の欲望の盛んなことを示すもので、死の恐怖がないということは、生の欲望の失われたことを証明するものである。森田正馬 |
1月18日 | 思想の矛盾ということについて、きわめて不思議な一例をあげてみよう。 それは私のいう神経質について、しばしば患者は「つまらないことを考えないようにしたい、いやな考えを起こさないようにしたい」と工夫し、努力し、苦痛懊悩(おうのう:なやみもだえる)することである。 だがわれわれが、物に触れ、事に接して、ある感じが起こり、考えが湧き出るということは、生きている間、けっして否定することのできない事実現象である。森田正馬 |
1月19日 | 森田先生:井上君が「自分は神経質症であったことを感謝する。 神経質症の苦しみを体験するのは非常に必要なことで、その体験によってはじめて悟りに達することができる。 しかし、神経質症もあまり長くやっては勉強や仕事が遅れるから困る。 二、三年くらい悩むのがちょうどよいかもしれない」と言いましたが、まことにそのとおりであります。森田正馬 |
1月20日 | ここの療法のもっとも大きなねらいは、この「とらわれ」から離れることであります。 それにはどうすればよいかというと、一方には自分の目的物から目を離さぬことが大事でありますが、一方には自分の心が離れられないときには、そのとらわれのままにとらわれていることも、同時に離れるところの一つの方法であります。森田正馬 |
1月21日 | 神経質の症状は、この「とらわれ」がなくなれば全治するのであります。 「とらわれ」を離れれば、非常に便利で、生活が自由自在になります。 ここの入院患者も、「とらわれ」のある間は、仕事が治療のため、修養のための仕事にとどまり、少しも実際の役にたちません。森田正馬 |
1月22日 | 始めに「治そうとする気を捨てなければならぬ」という言葉にとらわれ、苦痛をなくしたいという当然の人情に反抗して、自然の心を押しつぶしてしまうから、なかなか治らないのであります。 そうでなく、苦しみはありながら、また、この苦しみがなくなればいいがと思いながら仕事をしていると、しだいに仕事に身が入るようになり、いつの間にか仕事そのものになり、病気を治すということとは無関係になっているのであります。森田正馬 |
1月23日 | ヒステリー本態は、私はこれを先天性の変質で、感情過敏性の体質もしくは精神的特徴を持っているものといいたいのである。(略) ヒステリーは知識の発達はあるから、ただ知識と感情との調和が取れないものである。 感情過敏という性格にその本態を求めたゆえんである。森田正馬 |
1月24日 | 「はからいのない心」というのは、「あるがままの心」ということですが、これも言葉にとらわれるとかえってまちがいのもとになります。 あるがままになろうとか、はからいの心を捨てようとかすれば、それはすでに「はからいの心」であり、「あるがまま」ではありません。 実際生活による修養でなければ、理屈に当てはめて考えてもけっしてわかるものではありません。森田正馬 |
1月25日 | 神経質のひとはほめられるとお世辞ではないかと疑い、また褒められるに値するだけのことがあったとしてもほめられる以上の責任を感じ、なおその上にもし将来、その期待に反するようなことがあってはかえって信用をおとすことになる、と先々のことまで取越苦労をするのであります。森田正馬 |
1月26日 | 心機一転とは、平生内向性の心が、次第に変化して、或機会に一転して、外交的となることである。 その手段としては、第一に、自分の病状を言わないこと、書かないことで、第二には、仕事に乗り切ることの二つである。森田正馬 |
1月27日 | 私の考えでは、神経質は、感情のヒポコンドリーすなわち心気症もしくは疾病恐怖症の基調から起こるもので、これから出発して私のいわゆる仮性感覚過敏が起こる。 これが私の神経質のヒポコンドリー性精神基調説である。森田正馬 |
1月28日 | 「生の欲望と死の恐怖」ということは、必ず相対的な言葉であって、同一の事柄の表裏両面観である。 生きたくないものは、死も恐ろしくない。常に必ずこの関係を忘れてはならない。森田正馬 |
1月29日 | 自分の気分や想像で「治った」とか「よくなった」とかいっても、そんなことは問題になりません。ただ、実際に治ったという事実が大切です。 体重が増えたとか、終日よく働くようになったとか、気転がきくようになったとかいう事実を観察して、初めて「治った」ということが決まるのであります。森田正馬 |
1月30日 | ある対人恐怖の患者で、退院後に手紙で「百分の三治った」とかいってきたのであります。 これが着眼点が変わって、心機一転の状態になりますと、一つの症状がよくなればその一つをよろこび、二つ治ればその二つを喜ぶというふうになって、日ならずして全治するようになるのであります。森田正馬 |
1月31日 | イヤなことをイヤでなくしておいて、それから手を出そうとするのが神経質の人の通弊であり、ずるいところであります。 試験勉強は当然苦しいものです。 勉めて強いるのが勉強であります。 もしそれがおもしろいことであるならば、試験勉強ではなく試験道楽とでもいわねばなりますまい。 その苦しくておもしろくないものを、ラクでおもしろくありたいと思う時に読書恐怖になるのであります。森田正馬 |