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症状別アドバイス集

不安神経症の部屋・2006年

何が「特別」なのか? '06.12

最近の体験フォーラムを見ていると、非常に皆さんのやり取りが活発なことに驚かされると共に、体験を共有し支えあっていることにある種の感動を覚えました。まさにこのフォーラムでのやり取りから「私だけではない」という実感を得て、それを支えに、また仲間の体験を拠り所にして、それぞれの生活に踏み込み、不安と向き合おうとしているのでしょう。それだけに、今回「私だけの不安障害?」というテーマで活発なやり取りがなされていることに興味を覚えました。

神経症者の多くは、完全でありたい、人より優れていたいという生の欲望が強いものです。これは言葉を変えれば、発展向上欲や特別な存在でありたいという願望が強いとも言えます。だからこそ、症状や不安に関しても、本来は欲求の裏返しであるにも関わらず、「自分だけが特別なのではないか」と考え、それにとらわれていくのです。理想の自分に近づきたい、そういう点では特別でありたいわけですが、それが症状や不安であると恐ろしい。何だか言葉遊びのようになってしまいましたが、同じ「特別」でも、その内容によって良いものと悪いものに明確な色分けをしていることがおわかりになるでしょう。誰にでも「私(だけ)にあって欲しいもの」と、「私にはあって欲しくないもの」があり、それ自体は自然なことです。しかし、そこに絶対的な価値を置いてしまうところに苦しみの原点があると言えるでしょう。maさんも不安や症状についての森田の言葉(「常人に誰にでも起る不快の感覚」)を例に挙げていましたが、本来は誰しもが体験する感覚であったはずなのです。しかし、完全(特別)であらねば・・・という構えが強くなると、この常人に生じる感覚も問題と考えてしまう。まさに、特別である前に、「これがあると一人前ではない」という劣等意識に繋がってしまうわけです。

そんな悩みを、「特別ではない」と共有するフォーラムのやり取りは、回復への貴重な第一歩と言えるでしょう。人間、優れたところは案外皆と同じと思いたくないものですが、劣っていると思い込んでいることが実はそうではなかったとわかることは、救いであると同時に視界が開ける思いになるはずです。実際、入院森田療法や生活の発見会といった自助グループを体験した人は、まず「自分だけではない」ということに力を得るようです。「誰にでもある感覚」と一言で表現する以上の説得力が、こうした仲間同士のやり取りには秘められていますね。「特別」と思っていたことが、実は「特別ではなかった」とわかることによって、ようやく本当はどんな「特別」を求めていたのか、という本来の欲求に目を向けることが出来ると言えるでしょう。残念ながら、現実に「特別」な自分になることはかなり難しい。しかし、「特別」でなくても理想に近づく試行錯誤は出来るはず。「自分だけではない」という感覚を土台にして、本来の欲求に向けて一歩一歩進んでみてください。そして、その感覚もまた仲間で共有して欲しいと思います。
(久保田 幹子)

広場恐怖…苛立ちの底には切実な願いがある '06.11

hdさんのメールを拝見しました。一時は毎日のようにパニック発作に見まわれ死の恐怖に圧倒されていたとのこと。今は発作自体は軽減しているようですが、10年以上経過してもなお予期不安が頭から離れず、いまだに一人で行動できないとのことですね。

同様の体験を持つ何人かの方が書き込みをされていますが、パニック発作に伴う不安、恐怖感は筆舌に尽くしがたいものがあるのでしょうね。「発作で死ぬことはない」と頭では分かっていても、パニックが起こりそうな状況に直面すると反射的に身体が回れ右をしてしまうほどに、強い恐怖が記憶に刻まれているのでしょう。このためパニック発作を繰り返すうちにしばしば広場恐怖に発展し、hdさんのように一人で外出したり乗り物に乗ったり、果ては一人で自宅に居ることも困難になっていきます。ある壮年男性は30年以上一人で外出できず、いつも高齢の母親に伴われて通院していました。受診までに長期間を経ていたこともあり、徐々に一人で行動するよう促してもまったく受け付ける様子は見られませんでした。しばらく姿を見ないなと思っているうち、久しぶりにその人が一人で(!)来院されたのです。聞けば母親は数ヶ月前に死去されたとのことでした。一人になってしまってからもなかなか外出できないでいるうち、食料も底をつき、このまま自宅に留まっていたら餓死する恐れされ出てきたというのです。つまり外出するのも恐怖、留まるのも恐怖という切羽詰った状況に陥った末に、ついにその人は「死ぬ思い」で近所のコンビニに買い物に行き、それがきっかけでとうとう一人で外出できるようになったということでした。この話を聞き、ようやく回復を遂げてよかったという気持ちと共に、今までの長い年月がもったいなかったという思いを禁ずることはできませんでした。

hdさん。余計不安になるかもしれないエピソードをお伝えしてごめんなさい。でも、この方のように発作の恐怖に勝る「生存の危機」が訪れるまで行動を先延ばしにするのは、やはりもったいないことです。もう一つの例をお話しましょう。この女性もパニック発作を伴う広場恐怖の方で、予期恐怖のために一人で電車に乗ることが困難でした。通院を始めてから改善傾向にあったとはいえ、急行電車には依然として乗ることができないでいました。そのうちに外国で暮らしている父親が癌の末期になってしまったのです。生きているうちに一目父親に会っておきたい、という願いが日増しに強くなったその女性は意を決して、薬の助けを借りたとはいえ飛行機に乗って(!)父親の見舞いに行ったのでした。飛行機で行くしか選択肢のない場所だったのですが、ともかく急行電車をすっ飛ばして一足飛びに飛行機まで乗ってしまったのです。この例が物語っているのは、先のケースのように自己の「生存の危機」でなくとも、どうしても実現したいという欲求があれば、恐怖を越えて行動に踏み出すことができるということです。同じ症状に悩んだtomさんも同様のアドバイスを寄せています。「「くも膜下出血で半身麻痺の母のもとへ行きたい」「娘のほしがるものを買いに行きたい」「集談会に行きたい」といった気持が目的本位の行動として少しずつ距離を広げていきました。近いコンビニとか・・少しずつ距離を伸ばされてはどうでしょうか」と。

「一人で行動できない苛立ちで情けない」と書かれたhldさん。その苛立ち、情けないという気持ちこそ、「もっと自由な人生を歩んで生きたい」という切実な願いを抱いていることの証であり、それが行動を広げる原動力に他なりません。どうぞもう一度自分自身の心に「本当はどうしたいのか、何を望んでいるのか」を尋ねてみてください。そしてそのような願い(生の欲望といいますね)を確かめたら、それを恐る恐る行動に結び付けていってください。外出に限らず、生活の細々としたことをひとりで成し遂げる姿勢を培えば、いつか一人で外に向かって踏み出す機も熟すはずですよ。
最後に医学的事実をひとつ。パニック発作は通常10分以内にピークに達し、それが過ぎればひとりでに鎮まっていくという性質があることも頭の隅にとどめておいて下さい。
(中村 敬)

「〜したい」という気持ちを大事にしましょう '06.10

YUさん。はじめまして。娘さんの音楽コンクールに車の運転をして見に行かれたとのこと。娘さんもさぞかし喜ばれたことでしょうネ。家では音楽コンクールの話で会話が弾んだ様子が目に浮かんできます。こうした微笑ましい会話が出来たのも、車の運転中に「パニックになったらどうしよう」という「予期不安」があったにもかかわらず、「娘さんの音楽コンクールに行く」という大きな目標に向かって車を運転されたからに他なりません。こうした不安がありながらも、目的本位に行動することを森田療法では「恐怖突入」と表現します。まさにYUさんは恐怖突入された訳です。その結果、娘さんとの音楽コンクールを共に体験し、貴重な親子の思い出を作ることができました。不安な気持ちに左右されるのではなく、不安を抱えながら、「〜したい」という内なる欲求に素直に行動すること、そうした目的本位の行動が貴方を貴重な体験へと導いてくれた訳です。こうした内なる欲求を大事にしながら目前のことに1つ1つ取り組んでいくことこそ、YUさんのおっしゃる「今日をしっかり生きる」ことに他なりません。
(川上 正憲)

不調の時にはことさら問題と感じてしまうもの '06.09

toさん大変でしたね。
発見会では代表幹事というご苦労の多い役職についておられ、しかし今回講師の方から「人数不足は不努力のため」と言われ、2年間の苦労が吹き飛んだと感じたとのことです。加えて職場では、一時はリストラの恐怖を味わい、転職も考えたこともあった。最近では以前に比べて評定が厳しくなっており居心地がよいとは言えず、そんななか先日には退職を促す怪文書が届いたとのこと、大変意気消沈したのではないでしょうか。正式な文書ではないにしても周囲にそう見る人もいると考えると誰でも気分は落ち込むものです。

maさんも書かれていますが、意気消沈しているときや身体の不調を自覚しているときには問題をより大きなこととして感じてしまうものです。toさんの場合、毎朝出勤することが億劫で、何事にも気力が減退しているとのことですので、単なる気落ちでなく、うつ状態に陥っている可能性があります。かかりつけ医には相談したとのことですが、改めて意欲減退、倦怠感などの症状について相談してみてはいかがでしょう。場合によっては精神科医を紹介してもらうことも一案です。

それともう一つ、toさんのおかれている状況を改めて見直してみることが大切です。集談会の出席者が少なかったこと、勤務評定が厳しくなっていることなどは、いずれも個人の努力を越えた時代の流れが背景にあります。そこで他人の不用意な一言があったとしても、先ず「自分なりに努力を重ねてきた」という事実を自分自身がしっかり認めることです。事実唯真と森田先生も言っていますよね。幹事として苦労されてきた2年間をこの一言で崩されてしまうのはもったいないと感じるのですがいかがでしょうか。行動については臨機応変に考え、少し負担を減らして様子を見てみましょう。それでもつらいようなら、しばらく休息を取ることも考えてください。
(矢野 勝治)

できることはたくさんあります '06.08

keさん、こんにちは。自分の家で友人と話している時でも、パニック 発作が顔を覗かせる時があるとのこと、大変ですね。お疲れさまです。家族で お出かけする時も遠出したりする時も途中で発作が出そうになったり、慣れた スーパーや美容室へは行けるが、慣れない所に行くと怖くなったり、これでは 日常生活を送るのも一苦労ですね。その中で何とか家族とお出かけしたり、買 い物したり、友人と話したりしておられるのですね。すごい努力だと思いま す。結婚なさった6年前に初めての発作があったとのこと、いったいどうやっ て耐えてきたのですか?その辛抱と努力を尊敬いたします。
また、この6年間 は、keさんにとって決して無駄ではなく、貴重な経験であったと思いま す。神経症は辛いですが、その経験は自分の気持ちや考えを見直すきっかけに もなります。神経症にかかることで、かえって健康な人より人生に対しての考 えが深められることもとても多いと思います。一緒に取り組んでいきましょう。
さて、moさんがおっしゃっているように、必要なら薬も使う、徐々に 行動範囲を広げていく、不安、緊張を受け入れる、倒れてもいいと覚悟を持 つ、粘り強くとりくみ、自分が少しでも出来たことを認めていく、これらはす べて大切なことです。moさんが自分で努力するなかで見つけ出した宝の ようなご意見の数々であるというように感じられます。moさん、ありが とうございます。私にも参考になります。
keさん、今お伝えしたように、パニック障害を乗り越えるために出来 ることはたくさんあります。不安や緊張を受け入れることは難しいことです が、だからこそ取り組む価値があるのです。不安や緊張、発作が出そうになる ときこそ、行動する、前進する機会だと思ってください。なお、不安が余りに も強く、行動範囲を広げるのが困難な場合には、現在ご使用している安定剤の ほかに、以前に使用しておられたSSRIを再度服用してみるのも一法と存じま す。主治医とご相談してみてください。
不安の中で行動することの積み重ねによって必ず乗り越えられます。結婚し てからの6年間何とか耐え抜いてきたkeさんなら出来ると信じております。
(鹿島 直之)

無言も会話のひとつ '06.07

こんにちは、yuさん。yuさんは、対人場面で緊張し、そのことに深く悩んでいるようにお見受けします。でも、その悩みの裏には、yuさんの人を欲して止まない気持ちが、人一倍強く存在しているように思えてなりません。
もしかしたら、この気持ちが強いゆえに、「常に上手く接しなくてはいけない」という思いを募らせ、さらに緊張感を強めたのかもしれません。そうだとすれば、yuさんの緊張感は、当然起こるべくして起こったものだといえます。
しかし、実際には「緊張感さえなければ、交友関係も上手くいくのに」という思いが先行してしまい、緊張感を取り除くことだけにエネルギーが費やされている印象があります。
つまり、切に願っているyuさんの「人と接したい」いう思いが活かされていないことになるのです。その結果、取り除けない緊張感を前に、自分自身を常に否定的に見なしてしまっているのだと思います。
ですから、yuさんの本来の思いを活かすためにも、まずは緊張しながらでも、人と接する機会を持つように努めることが大切なのです。この時、最初から上手く接する必要はありません。
特にyuさんは、「会話も頭に浮かばなくて無言になりやすい」と記しているように、心のどこかでスムーズな会話にとらわれてしまっているのでしょう。けれども本当に大切なのは、yuさんが人と接しようとした姿勢であって、スムーズに会話することではない はずです。
無言は自分にとって悩みの種かもしれませんが、相手にとってむしろ会話のゆとりを与えてくれる大切な時間でもあります。無言も大切な会話に一つです。
yuさんの無言をyuさん自身が否定せず、会話の一部として大切にしていくことが、会話を豊かにしていく第一歩であると思います。その延長線上に豊かな交友関係があるはずです。今は、まだ辛い渦中にあるかもしれません。でも是非頑張って欲しいと思います。
(樋之口 潤一郎)

最近の報道を見て起こる気持ち '06.06

Kuさんは「変な事件を見て怖くなります。森田療法的にはそういったとき、どのように対処すればよいのでしょうか?今はすぐ頓服を飲んでいます」と書かれています。確かに、最近では幼い子供が巻き込まれたり、動機も理解できないような事件があったり、日々胸がふさがれるようなニュースがありますね。
そうしたニュースに触れたとき、「自分にもこうしたことが起こりえるのではないか」「身近な人が巻き込まれたらどうしよう」というように不安になるもの。基本的な安全感を脅かされて、ただただ「怖い」「いやだ」という恐怖を感じてしまうこともあります。それ らは皆「安全でありたい」「幸福でありたい」と思うからこそ生まれる自然な気持ちです。幸福な日常や安全な生活を求めればこそ起こる、自然な感情を慌てて消そうとしてしまっていないでしょうか。感情というのは不思議なもので、取り除こうとすると、より強くな るという性質を持っています。感情は、一方でそのままに放置すればやがて弱まるという性質もあります。(森田先生の「感情の法則」を参考にしてください)
不安があまりにもつらいとき、頓服薬を用いるのも対処法の一つではありますが、少し時間を味方につける、つまり少し待ってみるのはいかがでしょうか。 もちろん、「慣れる」「練習する」ために無理にいやなニュースを見ようとする必要はありません。
ただ、現代の社会で嫌なニュースに触れないようにするとなると、一切テレビもニュースも見ないようにするしかないでしょう。
Kuさんは「ニュースを見たいと家族が言うときに困る」とのこと。
「テレビをつけないで」と言ってご家族にも我慢させるとなると、本来のKuさんの願い、つまりご家族との幸福な生活を守りたいという思いと逆になってしまうのではないでしょうか。
そうしたニュースに触れてしまったときは、しっかり怖さを感じつつ、次のニュースにも耳を傾けましょう。生きるということにつきまとう、不確かさに持ちこたえていくことで、日常の生活も大切にできるのかもしれません。
(塩路 理恵子)

緊張のまま、書き込む事も第一歩 '06.05

YU様は森田療法を本でご理解し、日々実践していくうちに次第に症状が軽くなっていって良かったですね。森田療法は「自己治癒力」を引き出す治療のため、YU様のようにご自身で森田療法の考え方を実践することにより改善していかれる方は大勢いらっしゃると思います。ご自身で森田療法の本を読んでもなかなか森田療法的な考え方を実践できない方が病院を受診することになります。日々の生活を実践していくうちに結果として症状が軽減していく過程は森田療法の良い治療過程をたどっていると考えてよろしいかと思います。今まで症状へ向いていたYU様の「エネルギー」が健康な方向へ向いてきているのです。

今後は「森田療法の理論」の理解を本やこのホームページで深めつつ、さらにご自身の「やりたいこと」へエネルギーを向けていくのが良いと考えます。ですからこれからもご自身の今色々されたい事をもっともっと実践してくことが大事でしょう。
(舘野歩)

日記をうまく活用しよう '06.04

YUさんは、森田療法を実践するために日記をつけてみようかと考えているとのこと。日々の生活を振り返り、自分自身を知るためにも日記はとても役立つものです。そうしたYUさんに対して、hitさんはとても良いアドバイスを送っています。最初は症状のことばかり書いていましたが、その中で自分の体調のバイオリズムがつかめてきたと。また、その後はなるべくやれたことを日記に書くようにしているとのことです。
日々悩んでいると、どうしても初めのうちは症状のことや、思うようにいかない自分を責める内容が多くなってしまうものです。しかし、それでも良いのです。頭の中だけで考えているものを一旦文字に書いてみると、同じことを繰り返し考えている自分に気付いたり、ずっと調子が悪いと思っていたのが案外そうでもなかったことに気付くなど、これまでとは違った視点で生活を振り返ることが出来るかもしれません。あるいは、どんな時(どんな構えの時)に症状が強まり、どんな時に気分が流れていくかを知るヒントがあるかもしれません。いずれにしても、こういう風に書かなければならない、ということはないのです。悶々と考えていたものを、一旦言葉にして自分の目の前に表現してみることです。日記に書くことで、他人に愚痴らずに抱えることが出来るようになるかもしれません。
YUさんは、その後の書き込みで「森田を実践している人は、症状を持ちながらも行動している。自分はあれもこれも・・と思いながら実践できない」と嘆いていますが、YUさんが「出来ている」と思っている人も、内心は思うようにいかずにじれったい思いをしているはずです。「出来ている」「出来ていない」の二者択一にせず、YUさんが書き出している現状の中で、今すぐに何とかなるものと、何ともならないものを分けてみましょう。これも書き出してみると見えやすくなります。そしてとりあえず手がつけられるものから、一つ一つ積み重ねていくのです。こうしたステップを重ねる際の杖のようなつもりで、気負わずに日記を使ってみることをお勧めします。
(久保田 幹子)

消そうとすればするほど不安の火は広がる '06.03

不安に不安が重なってしまったKuさん。昨年暮れからそんな状態が続いているのでしたら、さぞ苦しんでこられたでしょうね。Kuさんの経過はよく了解できるものです。長年慢性腎炎を抱え、食事や体調に注意を払って暮らしてきたところ、血圧に対する医師の注意をきっかけに病院で測ると血圧が高くなってしまったということです。Kuさんのように病院で測ると血圧が高めになる方は少なくありません。測定の結果が心配で緊張して臨めば、それに伴って心拍数が少し多くなります。水を送り出すポンプにホースがつながれた状態を思い浮かべてください。ポンプをたくさん押せばホース内の水圧は高くなりますね。ちょうど同じ理屈で心拍数が増えれば血圧は高くなるものです。ためしに運動した直後に心拍数と血圧を測ってみれば一目瞭然です。Kuさんは理屈としてはこのことを分かっていらっしゃるかもしれません。さらに抜歯後の経過が悪かったことから、よけいに身体に不安と注意が向き、血圧の心配→心拍数増加→血圧上昇→一層の心配と頻繁な血圧測定という悪循環にはまってしまったのでしょうね。また下痢→健康不安→腸の刺激性亢進、不眠→うつ病への不安→不眠へのとらわれというように、あちこち身体に対する不安が広がってしまっているようです。こうなると、もぐら叩きのように次から次に不安が現れてきて、気が休まる暇もなくなってしまいます。これこそ森田が精神交互作用と呼んだ心身のからくりに他なりません。まずKuさんにはこうしたご自分の状態を客観的に眺めてもらいたいところです。次にどうしたらいいか。そもそもこうした病気に対する不安は健康に生きて行きたいという欲求の裏返しに他ならず、あってはいけない感情ではありません。
むしろ不安だからこそ塩分や過労に気をつけて生活を送り、腎炎を悪化させることなく過ごしてこられたはずです。その意味では神経質がよく生かされてきたのです。ところが最近では、頻繁に血圧や体重を測ったり、病気に関する情報を集めたりというように、不安をすぐ打ち消そうとすることに大半のエネルギーを傾注していませんか? もしそうであるなら、不安や病気に対する恐れはそのままにおいて、もう一度健康で活動的な生活を送ることに力を注いでみてはいかがでしょう。それが悪循環から脱する早道です。精神科や心療内科を受診して不安を軽減する薬をもらうのもひとつの方法ですが、そうしたとしても薬は生活を立て直すための補助手段ということをお忘れなく。
(中村 敬)

不安を持ちながら行動する '06.02

niさんは強迫観念や不安に長い間悩んできた様子ですね。今まで症状の苦しみに対し、それがどういうものなのか考え、どうすればよいのかといろいろ試行錯誤され、大変だったと思います。そして現在は、症状をどうにかしようとすることをやめて、自分のやりたいことに向けて行動しようとしているようですね。このことは、不安を自分で作り出さない、自分で強めないことにつながります。
何事も初めて行うことは誰しも不安になるものです。しかし多くの不安を抱えつつも自己の目標に向かおうとする姿勢は大事なものです。すなわち「不安を持ちながら」という姿勢です。その姿勢が行動につながります。不安が強い人は特にそうですが、迷ったときには進めと考えてみて下さい。
強迫観念に対しても、「またかと思ってほっておくようにしてます。」という話を伺うと、症状とうまく距離が取れていると思います。その調子です。頑張ってください。
(矢野 勝治)

神経症の治療は登山のようなもの '06.01

hitさん、こんにちは。4年ぶりの1泊、6年ぶりの遠出、行動範囲が大いにひろがっているのですね。何よりです。数年ぶり、という行動にとりくめるまでには、大変な努力の積み重ねがあるのだろうな、と思うし、その努力に尊敬の気持ちを感じます。
さて、体調の優れないときに久しぶりの大発作を起こした、さらにそういう自分にイライラしてものすごく腹が立つ、とのことですね。神経症の治療とは、山を上るようなものです。直線的な歩みではなく、3歩進んで、2歩下がる、という歩みに近いと思います。治療がとんとん拍子にすすんでいるときこそ、以前からの癖や症状が顔を出すものなのです。それでいいのです。うまくいっているときこそ気づかない心のどこかで不安は強くなっているものなのです。不安や症状が起こらなかったからいい、起こらなかったから悪い、ということではありません。むしろ不安や症状のぶり返しは神経症の治療につきものである、と考えていただいたほうがいいと思います。ただ、治療が進むにつれてぶり返しの程度が弱まってくる、そういったものです。そのように治療を進めるためには、ぶり返して苦しいときこそ、治療のいい機会であるということを忘れず、不安に取り合わず目の前のことに努力をしていくことが重要です。hitさん、イライラする自分も許してあげてくださいね。それも自然な気持ちです。
また、hitさんの目標は、神経症を治すという、ひいては自分の性格を改善しようという、大変なことなのです。その長い道のり、時には弱気になって当たり前だと思います。その気持ちもわかります。ずっと強気で押し切れる人なんかいないでしょう。弱気になってもいいのです。そこからどのように立ち直るか、そこで努力すればいいのです。
さらに、体調が悪かったり、心配事があれば不安や恐怖が強まって当たり前です。その癖が悪いと言うこともありません。その癖の中で何をするかが重要です。すべての感情は自分を変化させ、神経症を治す糧なのです。まず自分の気持ちを正直に受け入れることが、それを乗り越える第一歩です。本当にお疲れ様。また頑張ってください。
(鹿島 直之)

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