2026年2月

2月1日

神経質は(略)、常に偉くなりたいあまりに、偉い人を尻目に見ながら、まともに見る事ができず、しかして自分の劣等感に悩み、常にこれらの自然の人情に反抗して、強迫観念を起こしている。森田正馬

2月2日

何も物に当たらず、事に向かわずして、空中楼閣に、いたずらにいろいろの気持を作ろうとする事は、随分、無理な話でなくてはならない。森田正馬

2月3日

なんでもただ現実を見つめさえすればよい。目を閉じて、空想し、机上論を弄して、事実を無視するのが一番いけないのであります。森田正馬

2月4日

疑いというのは、我である。まかせるのは理知である。この疑いと理知との対立のますます大きく、争闘のいよいよ盛んなるものが、大きな柔順である。森田正馬

2月5日

今までのように、自分が強いて善人になろうとする事をやめ(略)、無理に悪人と思われないように骨を折る必要もないという風に、おうようになり、自然に心も安楽になり、心にこだわりがなくなって、日常の生活が、自由自在になり、神経質が治るのである。森田正馬

2月6日

すなお・従順・「はからわない心」というのは、「自然に服従し、境遇に柔順な心」である。森田正馬

2月7日

腹立ち、不平、疑惑などは、われわれの心に折にふれて当然おこる感情であるから、その感情のままにあるのを「自然に服従する」といい、親のいましめにいやいやながらも従い、職業上やらねばならぬことをいやいやながらも実行するのを「境遇に柔順である」というのである。森田正馬

2月8日

われわれは自分なりに人生観を立てて出発し、ふだんの実行と経験とによって、自分の思想の誤りを直すこともできる。しかし体験をもとにするのでなければ、たんなる思想によって思想を改善しようとするのは、ひじょうにむずかしいことである。森田正馬

2月9日

自分のすることすべて理想に照らして価値的に批判するためになかなか手が出ず、計画と時間割をつくることに精力をついやし、その計画と時間割が理想に流れて大きすぎるために実行が伴わず、それを自分の身体がよわく頭が悪いせいだと思って劣等感にとらわれる。森田正馬

2月10日

「自然の本性に従う」と言えば、したい放題の自堕落におちいることのように思い違いやすいけれども、心ある人間の自然というものは、けっしてそんなに安っぽいものではない。森田正馬

2月11日

何とかして立派な人間になりたい、何か一つの道で成功者と言われるようになりたい、自分の一生でこれだけは完成したいというやむにやまれぬ向上欲にみなぎっているのが、すなわち青年の持前の自然である。森田正馬

2月12日

思想は多くの場合、現実とは矛盾するものである。それは、たとえば「働かずにいられない」という自分の心の事実をありのままに見ることができないで、自分を第三者として「楽隠居をした方がよい」というように批判的に見るからである。森田正馬

2月13日

自分の心をありのままに見るとき、自分がぜひともやりたいこと、知りたいこと、成功したいことがあり、それは自分にとって高い地位や名誉にもかえがたい値打があることがわかるのである。それでこそ、我々の人生に深い意義と味わいがある。森田正馬

2月14日

人からよく思われようとか、卑怯と言われまいとか考えるから、自分の信念もまげ、自分の態度をとりつくろい、見栄を張ろうとする。そのために人は小胆、卑怯となり、あるいは空威張り(からいばり)となるのである。森田正馬

2月15日

諸行無常は動かすことのできない人生の事実である。貧富や賢愚(けんぐ)に関係なく、人はみんな生涯を不安定で立命できないままに送るのである。つねにこの無常・不安定とともにあると知れば、はじめてそこに安心立命の境地があることがわかるのである。森田正馬

2月16日

毛虫がいやらしいと思うのは感情であり、それが人に飛びつくものでないことを知るのは理知である。毛虫をいやらしく思わないようにしようと工夫するのは悪知であり、いやらしいままに必要に応じてそれお除去する工夫をするのは良知である。森田正馬

2月17日

適応性の発揮は、一日中の活動と疲労の曲線に順応して、無理のないようにやっていく、ということによってできるのである。森田正馬

2月18日

ある一つの仕事をする場合に、心がそのことばかりに集中しなければならない、と考えるのも正しいとはいえない。森田正馬

2月19日

子供にものを教える場合でも、つめこみ主義で一度におぼえさせようとするのは、ひじょうに害がある。子供の気持にまかせて、無理をせず何度でも簡単に教えるのが一番効果がある。森田正馬

2月20日

「なりきる」ということがある。苦痛があっても、苦痛そのものになりきれば、ただそれきりであってほかに比較する何ものもないから、「心頭滅却すれば火もまた涼し」というように、苦痛もつよく感じない。森田正馬

2月21日

「これくらいのことはがまんしなければならない」とか、「「こんなに苦しくてはとてもこらえきれない」とか、苦痛の大小や軽さ重さを比較検討するときには、その苦痛は客観的につよく意識されて、ますますたえられないようになる。森田正馬

2月22日

純主観とは、要するに、自分の直接的な感じ、あるいは観念そのままの姿であって、「気持ちがよかった」とか、「苦しかった」とか、言葉にあらわせばそれはすでに自己観察であって、もはや客観的となるのである。森田正馬

2月23日

われわれの気分や感情が三つの条件の組み合わせによって千変万化するものであることがわかれば、われわれが物にふれ事に接していろいろの感情をおこした場合、それを当然のこと、どうにもやりくりできないこととして受け入れ、自分の感情を変えようと無理な努力をしなくなる。森田正馬

2月24日

いたずらに気分がさわやかであることを願うのは、水の上の泡を追うようなものである。いたずらに心の苦悩をおそれるのは、水の中の汚塵(おじん)に拘泥するようなものである。森田正馬

2月25日

神経質患者は、不眠や頭の重い感じ、不快な気分など、一つ一つの症状にたいし絶えず注意を向け、自ら予測しているために、その症状はますます悪くなるばかりである。森田正馬

2月26日

対人恐怖という強迫観念者は、人にたいして気おくれがし、思うように交際ができない自分の性格をつくり変えようとして無理な努力をしますます対人恐怖をつよめることになる。不可能なことを実現しようとして、もがいているのである。森田正馬

2月27日

対人恐怖の人は(略)、たくさんの人を前にして自分の意見を発表するようなときでもおどおどしてはいけないと思っているが、それは人間の感情を無視した考え方である。むしろ、おどおどしてはらはらしながらやることが大切であって、そうすれば出しゃばりにならず、人からも好意をもたれて、自分の目的を達することができるのである。森田正馬

2月28日

よろこびはそのままよろこびであり、憂いはそのまま憂いであって、そこには何の作為も抵抗もなく、苦楽を超越している。森田正馬

2月29日

「欲しがる事をやめる。あきらめる」という事は、まだ欲しくてたまらぬという事実であって、ただ仮に思想をもって、試みにこれを否定して見るにとどまるのであります。森田正馬

2月30日

寂しくなったり、不安になったりするのは、当然の原因がある。しかも自分はこれを見つめようとせず、素直にこれに服従しようとしないから、自分でこれに気がつかないのである。森田正馬

2月31日

憂鬱や絶望を面白くし、雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが、不可能の努力であって世の中に、これ以上の苦痛な事はない。森田正馬

PCサイトへ
TOPへ