11月1日
最も忌むことは思想の矛盾もしくは悪智と称して、われわれの行為を一定の型にはめることである。先ほどの質問で、頭痛がして嘔吐するようなときに、やはり無理に押し通して、働かなければならないかとのことでありましたが、これは疲労のためか、たんなる神経性のものか、おのおのの場合によって違うものであるから、これに対して一般の規定として、お話することはできない事であります。森田正馬
11月2日
火を冷たくし、死を恐ろしくないようにしようとかいうのを、「思想の矛盾」という。矛盾とはあべこべになることである。恐れをなくしようとすればするほど、かえってますます、アベコベにおそろしくなる。森田正馬
11月3日
私は、強迫観念が、思想の矛盾から起こることを主張しているが、その思想の矛盾とは、思想が事実と反対になるということである。人が無言でいれば、そのまま無言なのであるが、もし「私は無言です」と言えば、それはもはや無言ではない。思想は事実ではない。それは影であり、また鏡に映った像のごときである。森田正馬
11月4日
苦痛は苦しい。努力は骨が折れる。これは花は紅・柳は緑というのと同様で、あるがままの如実である。なのに苦痛や努力は人生の当然であるから、これを肯定して、これを苦しいと思わず、満足としなければならぬというときに、柳は紅に、花は緑に感じなければならぬというように、そこに私のいわゆる思想の矛盾が起こって、事実唯真ということがなくなり、強迫観念の発生条件ができるのであります。森田正馬
11月5日
神経質の人は、過労の後とか、身体に何かの異常のあったときとか、心に煩悶のあったときとかの勉強のとき、イヤな気持ちになったことに対して、フトこれを病的と思い誤り、「これではならぬ」「努力心を起こさねばならぬ」「興味を引き起こすべきである」とか、私のいわゆる「思想の矛盾」を起こすのである。森田正馬
11月6日
「恐ろしいことを恐ろしくなくしよう」「苦しいことを平気でやろう」とかいうことを、私は「思想の矛盾」と称し、不可能を可能にしようとすることで、ノレンと角力をとるように、結局は奔命に疲れるばかりであると申しております。森田正馬
11月7日
ただ苦しい苦しいと苦しみながら、素直に、なすべきことをなし、非常識なことは、人目をもはばかって、忍受なされるが大切であり、これが人並みの常道であります。けっして自分ばかりが、病のために苦しいのではありません。森田正馬
11月8日
たとえば冬は寒い、心配事は苦しい、それを寒いと感じず、苦しいと思わないようにとすることは、白を黒と思い、曲り松を直松と見ようとするのと同様に不可能なことである。すなわち「思おうとする」と「思うことができぬ」とのいわゆる循環論理の際限ない心の葛藤になるから当然苦悩の極になり、眼も見えず、頭もボッとなることは当然のことであります。森田正馬
11月9日
外来の不眠の患者に対して、私が「眠らなくても、少しもさしつかえはない」ということを教えて、患者は「ああそうですか」といって、家に帰り、その晩熟睡ができる。(略)この次からそのとおりにしよう」と思えば、ただちにその考えが「思想の矛盾」になって、その次の晩から、眠れなくなる。(略)眠ろうとするほど、眠れず、治そうとすればするほど、治らないのである。森田正馬
11月10日
朝寝の習慣が、いつまでも治らぬという人は、いつまでも、この悪智にとらわれて、これから脱することのできないものである。「どうすれば朝起きができるか」とか、「どうすれば、読書の興味が得られるか」とか考えるうちは、ますますこの悪智から脱することのできないようになるものである。森田正馬
11月11日
「どうせ死ぬことは免れぬから、死の恐怖だけでも取りのけたい」と考えることがある。ちょっと面白い理屈のようであるが、実はまったく論理になっていない。「死は逃れられぬから、それで恐ろしい。もし逃れられるものなら、恐ろしいことはない」。これが正しい論理である。死の恐怖の人も、この考え方になったら、すぐにも治る。森田正馬
11月12日
自分の考え方で、事実の真相を曲げようとする。これが悪智です。「逃れられぬから、すなわち恐ろしい」という事実を恐ろしくないように考えようとするのが、悪智である。森田正馬
11月13日
君がご自分で、自分の非を知り、慚愧(ざんき)といわれるのは、すでにそれだけで上等で、これから君が出世されることの端緒であります。しかるにこれが一歩誤れば、ヒネクレになり、悪智・繋轆橛(けろけつ:ロバをつなぐ杭)・強迫観念になり、少しも発展することができないようになり、いわゆる「毫釐(ごうり:きわめてわずかなこと)の誤り千里の差を生ず」というふうになるのであります。森田正馬
11月14日
「自分は劣等である。人が自分を笑うであろう。再びこんな過ちのないように注意しなければならぬ」と思えば思うほど、これが悪智になって「二度あることは三度ある」というふうに、何度でも同様の過失を繰り返すものである。これが強迫観念や赤面恐怖の状態であります。森田正馬
11月15日
「昨夜も眠らなかった。夢ばかり見ていた。何時の時計の音も聞いた」というふうに、こまごまと自分の不眠を観察すると、注意と恐怖とが、交互にますます発展して、実際には眠っていても、自分の気持ちでは、まったく不眠のように思うようになってくる。その交互作用とは、不眠に注意を集中するほど、ますますこまごまと眠れない状態が明らかになる。私は、このことを、精神交互作用ということで説明している。森田正馬
11月16日
「心頭減却」とは、苦痛に対する想像すなわち精神交互作用をまったく止めることで、すなわち苦痛に対する批判をやめて、苦痛そのものになりきることである。これによって神経質の症状は、本来観念的なものであるからもちろん全治する。森田正馬
11月17日
「苦痛を苦痛として受け入れるようにしよう」ということは、その「受け入れよう」と心がけることが「思想の矛盾」となって、その受け入れることがますます苦しくなる。普通の人は、平常「受け入れる」とか入れないとか、そんなことを考えているのではない。ただ苦痛は苦しみ、面白いことは喜んでいるだけである。森田正馬
11月18日
夏の暑苦しい衣物でも、「苦痛を受け入れよう」と考えて着ているのではない。ただ何とも考えないで、それきりであるから、別に堪え難い苦痛を感じるのではないという意味であります。もしあなたが「受け入れなければならぬ」というはからいの心があるときには、常に必ず苦しくてたまらぬものであり、ズイブン窮屈な洋服でも、そんなはからいの考えがなければ、少しも苦痛に気のつかぬものです。森田正馬
11月19日
「はからいのない心」というのは、「あるがままの心」ということで、これも言葉にとらわれると、かえって間違いの元になる。「あるがままになれない」とか、「はからいの心を捨てる」とかいえば、既にそれは「はからいの心」であり、「あるがまま」ではないのである。森田正馬
11月20日
われわれは常に何かにつけて、疑い迷い、はからうものである。それがそのまま、われわれの自然の「あるがままの心」である。それをそのままに、あるいは森田の療法にまかせ、あるいは境遇・運命・自然の法則さては「良き人の仰せに従ひて、弥陀にまかせまひらする」ことが、すなわち「はからわない心」である。森田正馬
11月21日
こんなときに、一番軽便なことはとらわれになりきればよい。それは、悲しみは悲しみ、苦痛は苦しみ、とらわれはとらわれるよりほかに、致し方がないという意味である。これはわれわれの心の事実であるから、悲しみを喜ぶことのできないように、とらわれを否定することも、逃避することも不可能であるからである。森田正馬
11月22日
強迫観念は、いたずらに目前の苦痛から逃れんとするために、種々の心の中の小細工をするので、その結果は研究にもならず、何の体験もできず、いたずらに不可能の努力にわれとわが身を永久にさいなむのみであります。森田正馬
11月23日
強迫観念とは、身体の病根や死を直接に恐怖するのでなく、自分で「つまらぬことを気にし余計なことを心配する」のを、自らあるいは自分の気質の病的異常かと思い違えて、これを排除し、気にすることの苦痛を逃れんとするためにかえってますますそれに執着を深くして逃れることのできなくなる苦悩が、すなわちそれであります。森田正馬
11月24日
「考えまいと思っても、心に浮かんでくる」ということも、われわれには、いやなことは思わず、思いたい面白いことばかり思うというふうな自由なことのできるはずはないということは、解りきったことですけれども、普通の人は、不思議にこのことに気がつかず、人間は自由に、自分の思いたいことばかりを思っているものと考えているのです。この思い違いが、しばしば強迫観念の元になります。森田正馬
11月25日
神経質の特徴は自己内省が強く、理知的で感情を抑制するということが、その最も大なる長所であるが、同時にこれが最も大なる短所ともなり、いたずらに理屈ばって、自己の小智に執着し、長上の人やその道の人のいうことも疑い、宗教なども信ずることができない。いたずらにヒネクレて疑い深くなり、人を怨み世を呪うようになることが多い。森田正馬
11月26日
われわれの心は、外界の境遇に従って絶えず変化するものである。いやなことには、不快になり、好きなことには面白くなる。これが反対になれば、パラドクスになり、病的になる。森田正馬
11月27日
何かにつけて、思うがままになりたい、優越にありたいという欲望が満足される見込みのないときに、憂鬱になり、将来、とてもだめと想像するときに、絶望的になる。これに反して、欲望が意のごとくなるような気のするときには、気が引き立ち、楽天的になる。あたかも雨天に鬱陶しく、晴天に心が朗らかになるようなものである。何の理屈のつけようもないのである。森田正馬
11月28日
思い切ってやるということにも、二通りある。一つは能動的に、自分から勇気をつけてやる。第一の場合は、赤面恐怖患者が、よく「人前に出る稽古をすればよいか」など質問する心持ちで、この第一が軽快である。(略)たとえば自己紹介のときに、はじめごく簡単にいうつもりで、立ってみると、案外よくできた。今日はよくできたなと、そのまま喜べば、すなわちいわゆる初一念である。森田正馬
11月29日
思い切ってやるということにも、二通りある。第二の場合は、受動的に、やむを得ずやる。第二の場合は、いかなる境遇にも、ことさらに逃げないで、当たって砕けるという態度になる心境である。(略)第二が根治である。森田正馬
11月30日
強迫観念は、実に人生の煩悶の模範的なものである。たとえば「人の前では恥ずかしい」「難しい本を読めば、いやになる」とかいう当然の心の事実を、そうあってはならぬという「べし」ということで、その心を否定し、圧制し、回避しようとする不可能の心の葛藤であるからである。森田正馬
