7月1日
生の欲望と死の恐怖とは、上下大小や有無、生滅や迷悟、善悪などと同じく相対的なものであって、上がなければ下もないように、生の欲望が無ければ、死の恐怖もない。絶対的な有無もなければ絶対的な死の恐怖というものもない。森田正馬
7月2日
生の欲望が大きいほど、ますます死の恐怖も大きく、生の欲望がますます小さくなるに従って死の恐怖もいよいよ少なってくる。
死の恐怖のはなはだしいのは生の欲望の盛んなことを示すもので、死の恐怖がないということは、生の欲望の失われたことを証明するものである。森田正馬
7月3日
しばしば患者は「つまらないことを考えないようにしたい、いやな考えを起こさないようにしたい」と工夫し、努力し、苦悩懊悩することである。
だがわれわれが、物に触れ、事に接して、ある感じが起こり、考えが湧き出るということは、生きている間けっして否定することのできない事実現象である。
われわれは断食することも裸体でいることもできるが、考えないことだけはどうにも仕方がない。森田正馬
7月4日
「神罰恐怖も赤面恐怖も諦める決心でいれば治るでしょうか」とのお尋ねも、治れば諦め、治らねば決心しないというような決心や諦めは、悪智の矛盾であるということにお気がつかれないのでしょうか。森田正馬
7月5日
患者:赤面恐怖を治すべき心得をお聞かせください。
森田先生:赤面恐怖は治るべきものではありません。当然自己の持ち前で、人に対し、自分に対して常に恥ずかしがるのがわれわれ本来の面目です。
7月6日
赤面恐怖については、人前に出て「お前は恥ずかしがりやだ」と言われたときは、「どうも僕は実際に気が小さくて困る。何かといえばすぐに顔が赤くなる。こんな不本意なことはない。本当に僕は・・・・」と打ちあけなさい。
これはまずは形式的でもよいから、この文句を何遍でも繰り返してください。森田正馬
7月7日
患者:入院臥褥中、堪えられぬほどの恐ろしい退屈があるだろうと予期していたのに、きわめて凡々のうちに時日が経過していくので、少なからず力が落ちた。
森田先生:苦楽を予期すれば楽に、安楽を予期すれば苦痛がくる。
7月8日
注意は集中しようと思っても、集中されるものではない。
それはちょうど驚こうと思っても、驚けないのと同様である。
注意の集中は、精神の緊張にある。精神の緊張は、事件にぶつかるところに現れるものである。活動の内に注意がある。活動のないところに注意はない。
すなわち注意は活動であるといい得るのである。森田正馬
7月9日
われわれは欲望のままに活動していさえすればよい。心身の消耗など恐れる必要はない。
身体には自ら安全弁の役目を勤めるものがあるから模範的理屈にとらわれて、休養とか休息とかする必要はない。
絶えざる活動の間に、自然に緩急が加減され、仕事の変化が行われて、おのずから調節のできるものである。森田正馬
7月10日
自分を離れた客観的なことは、誰にでも理解ができる。
自分を判断できるものは、自分であるから、自分にはわからぬ。理解によって治すことはできぬ。
水の上の波を同じ水の波で消すことはできない。森田正馬
7月11日
気のもめるときや心配ごとのあるときに、眠れないのは当然のことで、駆け足をして、呼吸がはずむのは当然の現象である。
不可能を可能にしようとしてはいけない。森田正馬
7月12日
不眠を訴えるものは、自然に眠くなれば、いつでも眠り、眠たくなければ一夜でも二夜でも、自分でけっしていろいろと眠る工夫をしてはいけない。
恐怖、煩悶のあるものは、寝たままで、十分その苦痛を味わわせる。
けっして自分で気を紛らせる工夫をしてはいけない。森田正馬
7月13日
神経質の気質として、生の欲望旺盛で、且つ一方には自己内省の力が強いものであるから、自らその欲望と内省との間に、精神的葛藤を引き起こし、種々の病覚煩悶となり、神経質の各症状を起こすに至るものである。森田正馬
7月14日
「なりきる」ということがある、苦痛そのものになりきれば、ただそれきりであってほかに比較する何ものもないから、「心頭滅却すれば火もまた涼し」というように、苦痛もつよく感じない。森田正馬
7月15日
「これくらいのことはがまんしなければならない」とか、「こんなに苦しくてはこらえきれない」とか、苦痛の大小や軽さ重さを比較検討するときには、その苦痛は客観的につよく意識されて、ますますたえられないようになる。森田正馬
7月16日
神経質者が立ちくらみなど感ずるとき、自分は気を失って卒倒するのではなかろうかと恐怖し、その恐怖に刺激されて想像は悪い方へだけ向い、しまいには本当に卒倒するような気分となり、寝込んでしまうことがある。
それは全く夢の中のばけものにうなされ、蛇におそわれるようなもので、自分の気分や観念をそのまま現実であるかのように思い込むのである。森田正馬
7月17日
神経質者は、不眠や頭の重い感じ、不快な気分など、一つ一つの症状に対し絶えず注意を向け、自ら予測しているために、その症状はますます悪くなるばかりである。森田正馬
7月18日
神経質の人の特徴として、「自分の症状は人には少しもわからないけれども、こんなに苦しいものはほかにない」と自ら信じ、人にも訴えることがある。
しかしそれはまったく本人の主観的な気分にすぎず、客観的なものではない。森田正馬
7月19日
皮膚を針で刺してチクリと痛みを感じるのは絶対に自分であって、他人の身体を刺しても自分には何とも感じない。
この主観の中に閉じこもり、人と自分とを比較して判断力を失ったのが、神経質の症状である。
この自我の執着がなくなったとき、そこには神経質の症状はないのである。森田正馬
7月20日
不可能のことを可能のように思いこむのは愚か者のことである。強迫観念がそれである。
雑念恐怖という強迫観念にかかっている者は、雑念を払いのけて勉強に専心しようとするためますます雑念が群がりおこり、勉強が手につかなくなる。森田正馬
7月21日
対人恐怖という強迫観念者は、人に対して気おくれがし、思うように交際ができない自分の性格をつくり変えようとして無理な努力をし、ますます対人恐怖を強めることになる。
不可能なことを実現しようとして、もがいているのである。森田正馬
7月22日
対人恐怖の人は美しい女性や目上の人でも平気でありたいと思い、たくさんの人を前にして自分の意見を発表するようなときでもおどおどしてはいけないと思っているが、それは人間の感情というものを無視した考え方である。森田正馬
7月23日
対人恐怖の人は、おどおどしてハラハラしながらやることが大切であって、そうすれば出しゃばりにならず、人からも好意をもたれて、自分の目的を達することができるのである。森田正馬
7月24日
禅の言葉に初一念ということがある。
たとえば、禅定からさめた瞬間、ハッと自分のことに気がつく。これが初一念である。
つづいて、よい気分であったなと思えばそれが第二念である。
これが悟りだ、と思えば第三念である。森田正馬
7月25日
強迫観念にとらわれて取り越し苦労する時、症状はますます悪くなり、しまいには仕事も手につかなくなる。
ところが症状がありながらも、とにかく仕事に手を出し、いやいやながらもやっているうちに、いつの間にか仕事そのものになりきり、煩悶や取り越し苦労を超越した時に症状は全く消え失せるのである。森田正馬
7月26日
「とらわれ」とは、物ごとのある一方面だけに注意するため、全般を見ることができず、それに対する適切な処置をとることができないのを言うのである。
下を見て歩けと言われてくぐり戸で頭を打ち、上を見なければいけないと思って物につまずくようなものである。森田正馬
7月27日
勉強の苦痛や、家庭のうるさいことや、社交の煩わしさなども、すべて自分の心の置きどころによってそれをリズミカルに調整し、自由自在であることができるのである。
それにはまず自分がその中に没入同化してその境遇になりきることが必要であって、反抗したり回避したりしないことが大切である。
それを「自然に服従し、境遇に柔順であれ」と言うのである。森田正馬
7月28日
神経質の人は、時間をこしらえ、仕事の見積もりを立て、「これでよし」と納得できるまでは手を出しません。
このようにするとしないとの境がハッキリわかれています。
そしてしない癖がつくと惰性でなかなか手がでません。森田正馬
7月29日
私が「精神の拮抗作用」と名づけているように、心はいつも見るか見ないか、逃げるか逃げないか机の上を片付けるか片付けないかというふうに、必ず反対の心が戦っているものであります。
この戦いが強い場合に煩悶とか強迫観念とかいうのであります。森田正馬
7月30日
素直な人は、非常に簡単に早く治ります。柔順ほど安楽はありません。
やってみないうちから屁理屈をいって、抗議を申し込む必要は少しもありません。
素直と強情とのちょっとの差が、治ると治らないの雲泥の開きを生ずるのであります。森田正馬
7月31日
ここで全治した人は(略)、周囲が入院前とあまりに変わっているので、われながら不思議に思い、驚くことがあります。
それは実は周囲が変わったのではなく、自分自身が変わったのです。
自分自身が変わったために、周囲が入院以前と違って見えるのです。森田正馬