6月1日
精神交互作用とは、われわれがある感覚に対して注意を集中すれば、その感覚は鋭敏になり、そうして鋭敏になった感覚はさらにそこに注意を固着させ、この感覚と注意が相まって交互に作用することにより、そういう感覚をますます強大にするそういう精神過程を名づけたものである。森田正馬
6月2日
強迫観念とは、患者がある機会からある感覚もしくは感想を病的異常と見なし、それを感じるまい、考えるまいと抵抗するところから起こる心の葛藤を名づけたものである。
すなわち、精神の葛藤がなければ強迫観念はない。森田正馬
6月3日
思想の矛盾とは、こうありたい、こうあらねばならないと思想することと、事実、すなわちその予想に対する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私(森田正馬)が仮に名づけたものである。森田正馬
6月4日
およそわれわれの主観と客観、感情と智識、理解と体得とは、しばしばはなはだ矛盾撞着(つきあたること、矛盾すること)することがある。
けっしてこれを同一視して考えるべきものではない。この区別を明らかにしないために、私のいう思想の矛盾が起こるのである。森田正馬
6月5日
体得とは、自ら実行、体験して、その上で得た自覚であって、理解とは、推理によってこうあるべき、こうでなくてはならないと判断する抽象的な知識である。
ところが、最も深い理解は、具体的に体験によって会得したのちに生じるものであって、たとえば食べてみなければ物の味を知ることができないのと同様である。森田正馬
6月6日
強迫観念は、不潔であれ、赤面であれ、まずこれを感じないように、考えないようにしようとすることから始まり、自己の感情を普通論理によって圧服排除しようと努力し、ますます自己の微細な心情を詮索し、それに対する種々の手段を講じるものであって、つまり誤った判断から発展したものである。森田正馬
6月7日
精神活動のうちで、われわれの思い通りになるものは、ただわずかに能動的注意による目的観念に対して、観念の自然連合を選択することができるにとどまる。
この自然に起こる観念連合は、時と場合に応じていついかなる考えが浮かび出るものか、予定することも制限することもできず、まったく神出鬼没である。森田正馬
6月8日
強いて忘却しよう、睡眠しようとあせったり、あるいは精神活動を抑圧しようとすれば、かえってますます精神の反抗作用を起こし、考慮の葛藤を生じて、その目的と反対の結果をきたすようになるものである。森田正馬
6月9日
思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然それを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然それを苦痛、恐怖し、煩悶はすなわちそのまま当然それを煩悶すべきなのである。森田正馬
6月10日
およそ神経質の症状は、注意がその方にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は患者の自然発動を促し、それによりその活動を外界に向かわせ、限局性の注意失調を去らせて、結局それをこの無所住心の境涯に導くことにあるのである。森田正馬
6月11日
神経症の患者は、たとえば根笹の一局部を掃除して、そこがきれいになれば他の部分が汚く見えて、ついでにあれもこれもとしだいに発展し、あるいは蜘蛛の巣を払い、あるいは花壇の害虫を除くとかいうようになる。
(略)、些細なことでもますます完全に、それを成功させようという感情が起こるようになる。(略)
あの強迫観念が発展するのも、じつはこの完全欲から起こるものである。森田正馬
6月12日
もしもこの仕事が自発的でなくて、他動的に仕事を課され、あるいはたとえば広大な場所の庭掃除とか、自ら仕事の結果を予想するときには、患者はその完全欲のために、成功に対する予期感動に支配されてかえって困難と不成功とを感じ、実行に着手することができないようになる。森田正馬
6月13日
およそ、神経質患者は、何をするにも時間割と仕事の見積に時間を費やし、それを大げさに考え、大義に思い、いたずらに煩累(はんるい:煩わしく面倒な事)を感じて、独り気分がいらいらするものである。森田正馬
6月14日
純な心は(略)善悪、是非とかいう理想として予め定めたものを没却して、拘泥のない自分自身になったときにはじめて体験されることであって、この療法(森田療法)の進行中にしだいしだいに会得されるところである。森田正馬
6月15日
本療法(森田療法)の着眼点はまず第一に、その複雑な精神の葛藤を去って、それを単純な苦痛もしくは恐怖に還元することにある。
すなわち患者に対して、「たんにそのあるがままに忍耐すべし」とか、「苦痛、恐怖を否定するとか、それを避けようとし、気を紛らすとか、忘れようとするとかしてはならない」という精神的態度を教えて、実行する手段を教えるのである。森田正馬
6月16日
われわれは物に触れ、事に接して、それに対するある行動を抑制することは可能であるけれども、それに対して感じない、もしくは思わないということは不可能である。(略)
人に悪口されて、腹を立てないことはできないけれども、喧嘩しないで、それを抑制することはできるのである。森田正馬
6月17日
理論から出発して自己の心境をそこに当てはめようとすれば、思想の矛盾となり、悪智となるのであるが、ある実際の体験もしくは私のいう「純な心」から出発して、正しくそれを叙述、批判することができたならば、それが良智である、ということが分かるかと思われる。森田正馬
6月18日
(強迫症の)患者は、自然に徐々に、恐怖に対する自信と勇気をとを獲得するようになるものであるけれども、少なくとも一度は恐怖の内に突入するという心境を得て、はじめて再発のない治癒をえるものである。森田正馬
6月19日
人は火を涼しく感じ、水を温かく思いたいというときに、そこに迷妄を生じるのである。
人は自然に帰れば、冬は寒く、病は恐ろしく、不潔は厭わしく、人に対しては羞恥を感じるべきである。(略)
強迫観念は、冬を暖に、夏を冷に感じようという欲望を逞しくするものである。森田正馬
6月20日
強迫観念は、必ず常に執着から起こるものである。執着とは、事物の全体を見ないで、その一面のみを見るからである。(略)
欲が大きければ、心配も大きい。患者はその欲を捨てないで、その苦痛を否定しようとする。希望に対する快楽を無視して、努力に対する苦痛のみに執着するのである。森田正馬
6月21日
死を恐れ、病を畏れることは、人の本来性である。また恐怖に対して、精神交互作用を伴うことは、われわれの心理の自然過程である。
神経質の人は、ただこれらのことに関して、過度に鋭敏な傾向があるということができる。森田正馬
6月22日
私(森田正馬医師)の神経質の療法は、身心の自然発動を盛んにし、むしろ各々その人の病的傾向をも利用して、いたずらにそれを否定抑圧することなく、人の本然の能力を発揮させようとするものである。森田正馬
6月23日
いたずらに劣等感にとらわれる人は、人の会釈笑いを見れば、人はみな朗らかだが自分はとてもだめだとか、人の飯炊きを見れば、人は器用でなんでもよくできるが自分は不器用でだめだとか、実に上手に手際よく他人と差別を立てて、自分をへこまることがうまいのである。森田正馬
6月24日
自分で無智な行動をしたと、気がついたとき、独りひそかに心細く思う。
また、心に卑劣なことを考え、あるいはひそかに、悪徳をたくらみ、不善をしようとするときは、(略)独り自ら恥じるものである。これがわれわれの自然の純情である。森田正馬
6月25日
赤面恐怖(対人恐怖)でいえば、人に笑われるのがいや、負けたくない、偉くなりたい、とかいうのは、みなわれわれに純なる心である。
理論以上のもので、自分でこれをどうすることもできない。森田正馬
6月26日
恐怖と欲望との間の葛藤が大きくて、その苦痛を押しきっていくのが、立派な人であり偉い人である。
その恐怖を否定し、あるいは欲望を捨てようとか、工夫するのが、似て非なる修道者であり、強迫観念であるのである。森田正馬
6月27日
気がもめるハラハラするということは、同時に仕事を多くしたい、能率を上げたいということである。
これは必ず別々に取り離して考えることはできない。
物事は常に表裏両面を見なければ、その全体を正しく観察することはできない。森田正馬
6月28日
気がもめるという不快気分のみの反面を見るときに、この気分だけを取り除いて、楽に仕事をしようとする迷いの心を起こすようになる。
楽に仕事をするのでは、けっして仕事がはかどるものではないということに、お気がつかれないのである。森田正馬
6月29日
恐怖そのものに即していえば、恐怖するまいと努力するのでなく、恐怖感情はただそのままに持ちこたえていさえすればよい。森田正馬
6月30日
世の中の人が臆病、心配、取越苦労を排除し、否定しようとするのは、たんなる机上の空論であって、勉強しないで学者になり、働かないで金持ちになりたいようなものである。森田正馬