2月1日
心配や驚きのときに、心悸亢進するのは、生まれながらにして定まったことである。(略)。
自ら脈拍をはかるときには、脈が早くなったと思えば思うほど、ますます脈拍が多くなり、すでにこの恐怖の迷妄にとらわれてのちには、昔から不安なときに脈拍が多くなるという経験は忘れてしまうのである。森田正馬
2月2日
神経質は病ではないある感覚に執着してこれを病と信じ迷妄する病であるから、その執着を去りさえすればよい。森田正馬
2月3日
患者はその苦痛なり恐怖なりを逃れよう、それに勝とう、否定しようとしてはいけない。
それでは、神経質がますますその苦痛にとらわれ、心の葛藤を盛んにし、症状を複雑にする手段になるのである。森田正馬
2月4日
一般神経衰弱の症状は、恐怖、心配に相当するものであるから、その感情はいつとはなしに一定の時日(一定の時間の経過)で自然に経過するものである。森田正馬
2月5日
すべて恐怖、心配はこれをその「あるがまま」にすれば、最も早く過ぎ去るものである。森田正馬
2月6日
神経質は一種の素質であって、生れつきの気質である。
この気質の上に、ある機会に遭遇して種々の症状を起こすようになるものである。森田正馬
2月7日
注意すれば感覚が鋭敏になり、感覚が強くなればますます注意がその方に集注するようになるという交互に発展していく関係を、私(森田正馬)は精神交互作用と名づけて神経質症状発展の説明を試みたのである。森田正馬
2月8日
神経質で夜中覚醒して眠れないというのは、眠れないという恐れと眠りたいという努力のために精神活動が起こって、そのために意識が明瞭になってくるのである。森田正馬
2月9日
睡眠とか忘却とかいうものは、そのことが念頭から離れ、そのことに対して何も思わないようになってのことである。(略)。
眠ろう、忘れよう、思わないようにしようと、思い考え工夫し努力するときに、どうして眠りまたは忘れることができようか。森田正馬
2月10日
神経質は、心配すればますます身体に障ると恐れ、その心配の苦痛を何とかして去らせようとし忘れようとして、あせりもがくからますます煩悶苦悩となり長い年月を経てもけっしてこれを忘れることができない。森田正馬
2月11日
われわれは飯を食わずにいることもできるし、動かないでいることもできるが、考えないでいることだけはできない。(略)。
われわれはつねに何をするにも、可能と不可能との区別を明瞭に知り分けることが必要である。森田正馬
2月12日
強迫観念とは、自ら思うことを思うまいとする心の葛藤のことに名づけられたものである。森田正馬
2月13日
強迫観念ということについて必要な条件は、ある感じまたは考えに対して、感じまい、考えまいとする反抗心があることであって、この反抗の心がなければ、それは強迫観念ではない。森田正馬
2月14日
強迫観念の患者は、つねにある特殊のことについて、それを感じ思わないようにしようとするために、そのことに対してつねに恐怖に駆られるようになる。森田正馬
2月15日
強迫観念は、(略)自分の感じや思想が自分の心の安寧を妨げ、生活に障害を及ぼすことを恐れるために起こるものである。森田正馬
2月16日
神経質は頭痛、胃アトニー等単純なものからきわめて複雑なる強迫観念に至るまで、すべて恐怖という精神的事情から起こるといっても差支えはない。森田正馬
2月17日
思想によって事実をつくりまたは事実をやりくりし、変化させようとするために、しばしば矛盾が起こるのである。森田正馬
2月18日
恐怖の苦痛に対してこれを去ろうとし、否定しようとし、これに勝とうとし、気を紛らせようとする。(略)。
ここに恐怖を去らせようとする思想と恐怖の事実との間に精神の葛藤を起こし、これが苦痛となり煩悶となる。森田正馬
2月19日
恥かしいと思ってはだめだと煩悶(はんもん:もだえ苦しむこと)して赤面恐怖症となり、肺病をおそれてはいけないとあせりふためいて肺病恐怖の強迫観念症になるのである。
それは思想によって不可能を可能たらしめ、事実を無視否定しようとする思想の矛盾から起こるのである。森田正馬
2月20日
恐れはそのまま恐れであればよい。
その恐れが平常心であって、この恐れを安心にしようとするから虚偽になり自欺(じき)になる。森田正馬
2月21日
坐禅で精神統一するのも電車で不安になるのも、いずれもともに時と場合に応ずる平常心である。
このときはじめて心頭滅却になる、甘いものばかりが平常心で、酸いものも甘いと思わなければ平常心にならないという思想的な虚偽ではいけない。森田正馬
2月22日
心配事を安心したり、忙しいのを落ち着いたりしようとするのは、それは「難き(かたき=難しいこと)に求む」以上のことで、まったく不可能の努力であるのである。森田正馬
2月23日
「あるがまま」になろうとするのは、実はこれによって、自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるということの「あるがまま」とは、まったく反対であるからである。森田正馬
2月24日
人生は、苦は苦であり楽は楽である。
「柳は緑、花は紅」である。その「あるがまま」にあり、「自然に服従し、境遇に従順である」のが真の道である。
毎日の心持を引き立たせる最も安楽な道である。森田正馬
2月25日
苦痛は苦しい。努力は骨が折れる。(略)
なのに苦痛や努力は人生の当然であるから、これを肯定して、これを苦しいと思わず、満足としなければならぬというときに、(略)そこに私のいわゆる思想の矛盾が起こって、事実唯真ということがなくなり、強迫観念の発生条件ができるのであります。森田正馬
2月26日
夏は暑い。いやなことは気になる。不安は苦しい。(略)
それが事実であるから、どうとも別に考え方を工夫する余地はない。(略)
ただ、「なるほど」と感心さえすれば、それが事実となって、簡単に治るようになる。森田正馬
2月27日
臆病、煩悶、大胆、その事実のあるがままのなりゆきにあるとき、そこに正しい強い力がある。
苦と楽とは、同一事件に対する心の表裏であり、欲望と恐怖とは常に相離れることのできない事実であるように、臆病と大胆とも必ず常に相対的関係にあるもので、これが別々に取り離されて成立し存在するものではない。森田正馬
2月28日
誰でも自分の恐怖なり失望なり、感動したことについて、その時と場合と事柄とが、それに関連したときに、それを思い出し、その感想を起こすことは当然のことです。
糞を思い出せば臭気を連想し、人に恥辱を受けたことを思い出せば、くやしくなる。当然のことです。森田正馬