症状別アドバイス集

普通神経症の部屋

「死を恐れるのは、生きたいためである」 '22.12 

Sさんは、かつて疾病恐怖に悩んでいましたが、怖くてもなすべきことをなしているうちに症状が気にならなくなっていたものの、最近また頭痛・眩暈・しびれなどに悩まされ、病院で問題なしといわれたことが逆に恐怖になっているとのことでした。確かに、症状はあるにもかかわらず、原因がわからないと、なす術がないといった気持ちになり、不安がつのってしまいますね。

とはいえ、フォーラムの仲間からのコメントを機に、自分自身をきちんと振り返っており、身体の違和感があるたびに、不安に苛まれているのは「生への執着」だと気づいておられます。また、抗うつ剤を勧めた医師に対しても、本当は頑張りを認めて欲しかったのだと、落胆した理由に気づけていらっしゃいます。このように、目の前の不安や落胆の裏には、生きることへの欲求や、認めてもらいたいという欲求があったのだと気づけていることは、以前のSさんとは大きな違いであり、成長している証なのではないでしょうか。最近また身体の症状に悩まされてしまうのは、不安と全然上手く付き合えていなかったからだと自信を失っているようですが、そんなことはないと思います。

森田は「死は恐ろしい。恐れまいとしても無理である」「死を恐れるのは、生きたいためである」「生きる欲望のないものが、どうして死を恐れたりする必要があるだろうか」と述べています。Sさんも気づいておられるように、病や身体の違和感に恐怖を感じるのは、それだけ健康に過ごしたい、生きたいという欲求が強い証ということです。勿論、体調も常に万全で、自分の思い通りの生活を送ることが出来ればどんなに幸せか、と思いますが、残念ながらそれは不可能なことです。また、私達の人生にいつか終わりがくることも、避けることは出来ないのです。

限りある人生だからこそ、身体の違和感や不安に注目するよりも、それは全て「生きたい!」という気持ちのサインと捉えてみたらいかがでしょうか。実際、Sさんは、本当は日常生活を楽しみたい、仕事をしっかりこなしたいという欲求を感じているように思います。そうであるならば、死を恐れることに時間とエネルギーを費やしているのは勿体ないことでしょう。一度きりの人生であるからこそ、少しでも後悔がないようにどう過ごすかを考えてみてください。その時には「なすべきこと」だけでなく、是非「今、やりたいこと」にも目を向けてみてください。
(久保田幹子)

「死の恐怖でいっぱいの時には」 '22.11 

Yさん、こんにちは。健康診断で白血病疑いとなり、不安な日々を過ごされているのですね。他の方もコメントされていますが、「死ぬかもしれない」という事実に直面し検査結果を待つ間は、不安な気持ちが強くなるのも無理もないですよね。このコメントがYさんの元へ届くころには、既に検査結果が出て事情も変わってらっしゃるかと思いますが、「死の恐怖への克服はどうしたらよいのでしょうか」というYさんの問いかけに対しコメントをさせていただきます。

Yさんは、「生の欲望と死の恐怖、表裏一体の状態だと思うんですけど、頭ではわかっていても、死の恐怖でいっぱいになって、何も動けなくなりました」と書かれていますね。Yさんの状態は、まさに「死の恐怖にとらわれている」ものと理解できます。「死の恐怖を克服したい!」と、無くそう無くそうとはからうと(例えば病気について調べたり、自分の体調を細かくチェックしたり、行動を制限してしまう等)、余計に恐怖が強く感じられて、そのことで頭がいっぱいになってしまうのですよね。

では、そのような時にはどうしたら良いでしょうか。死の恐怖に直面し頭を抱えてしまっているYさんを想像して考えてみますと、「克服しよう」と意気込むよりも、今はただ「怖いなぁ苦しいなぁ」と、その気持ちのままに過ごしてみることも一つではないかと思います。森田の述べた言葉に次のようなものがあります。「『なりきる』ということがある。苦痛そのものになりきれば、『山に入って、山を見ず』というように、比較するものが何物もないから、ただそれきりのものである」、「なりきったときに働く心の、その働きを認めえたとき、喜びを感じずにはおれないのである」というものです。つまり、恐怖なら恐怖そのものになりきることで、そのうちに自然とまた心がはたらいて、決して恐怖だけではなくなるということです。

Yさんは、ご家族と楽しい時間を過ごした時に、特に死の恐怖が強くなるのですね。生の欲望と死の恐怖は裏表なので、それも自然な心の動きです。死の恐怖がつらい時こそ、恐怖になりきって過ごしてみることで、そのうちにまた「〜したい」というYさんの欲望が自然に出てきます。死の恐怖の強さの分だけ、生きる力が強いのです。Yさんの生きる力を、応援しています
(金子咲)

「自分の努力を認め、オープンに生きることが幸福へのカギ」 '22.10 

Sさんは外から人の声などの音がするたびに動悸がするようになり、音がしないときも予期不安に悩まされ、そのことを誰にも言えず苦しまれていたとのことでした。体験フォーラムを通じて、言ってもわかってもらえないという思いや、ありえないものを求めていたという自分の思い込みに気づかれたそうです。

本当に仲間の存在って大きいですよね。これも勇気をもってSさんが書き込まれたからこそ始まった縁ですが、仲間との対話で自分の状態を見つめていけたことがまず素晴らしい。一方でSさんの書き込みを見て「自分も」と勇気づけられた人がいるかもしれません。

これから先も自分に無理のないペースで自分の考えていることや辛さをオープンにして話し合う場を持ちながら進んでいかれたら良いだろうと思います。書かれたコメントで納得することもそうでないこともあると思いますが、疑問に思うことがあればそれをまた出してやり取りしていけると相互理解が広がりますね(これも出すか出さないかゼロ100で決めるのではなく、出しにくいことは出し方を工夫していくことが大事ですね)。相手を傷つけたくないし、自分も不用意に傷つきたくないしということで、なかなか本心を言わない風潮もありますが、それは孤独感の増長につながることが多く、やはり本心のやり取りは大事だなと思います。

そして、仕事や生活が思うようにならない理由を音のせいにしてと書かれていましたが、この悩みに対して何かできることはありそうですか。Sさんが自分の生活に望んでおられるのはどんなことだろう、自分の手の届くことでその生活に近づくためにできることはないだろうかと、想像します。

ご存じのように、森田療法では、とらわれ(強迫観念)はたまたま起きた生理現象に対して、注意の悪循環(注意を向ければ向けるほど気になる)と思想の矛盾(感じて当然のものを感じないようにしようとする)によって起こると考えます。子どもが外でうるさく、それで動悸がして気になってしまうこともあるでしょう。うるさいときはうるさい。動悸がしてくると気になる。それ以上でも以下でもなく、私たちはそう感じつつそのことをそのままにしておくしか出来ないものなのです。

ちょっと自分が何か他に気を取られたり、集中することがあると、ふとその動悸を忘れていることもあるのではないでしょうか。その瞬間楽しめていることを大切にしてください。そして、音や動悸に振り回されるされないを良い日悪い日の判断基準にせず、楽しめたことやできたことにより注意を意識的に向けるようにしてみてください。

毎日がしんどく感じる場合には、生活の中に、自分がその日、その週を過ごすのに元気が出る要素を入れていけると良いですね。例えば好きな秋の果物を食べる、自分の大切な人との時間を大事に過ごす、外の紅葉に目を向けるなど、どんなことでも。それが今を味わって、今この瞬間を大切にしていくことです。

仕事や生活で実現したい目標があるのであれば、目標へのステップは小さく具体的に設定して、ひとつひとつできたことを認めていってくださいね。 これが森田先生の言葉にある「苦痛はこれを当然苦痛として苦しみ痛み、自分自身を生き、自分の人生を進んでいく」ことにつながります。
(矢野勝治)

「原因探しより、今自分がどう生活したいのかを考えてみる」 '22.9 

Sさんは軽度のパニック障害があり、また、パニック発作とは違う動悸のような症状もあり、心配の無い不整脈と診断されたにも関わらず、常に心臓のことを考えて怖くて仕方なく、あちこち体調が悪くて憂うつになったり、家族や友人、職場にも恵まれているにも関わらず、淋しい、孤独感で辛くなったりしています。また、その原因が何か分からず、対処方法がなくて困っていらっしゃいます。

パニック発作だけでなく、不整脈のように、実際に動悸のような症状があると、余計に体の心配は強くなりますよね。そうなれば自ずと自分の身体に注意が向いてしまうものですね。また、寂しい・孤独などと感じている原因が分からないというのも不安になりますね。

一般に、何か問題が起きたとき、原因が分かれば対処が出来ることもありますが、特に心身の問題であった場合、原因が分かったとしても、どうにも対処出来ないこともあります。そういった場合には、原因を探ることよりも、今の自分の状態に何が出来るのか、という視点を持ち、試行錯誤してみることをお勧めします。

どうしても、辛い症状があれば、それをなんとかしたい、取り除きたいという気持ちになるものです。しかし、その症状があるから、何も出来ないわけではないはずです。今辛くなっている原因を探ろうとするところばかりでなく、その辛い中でもSさんが出来ていることにも目を向けてあげてください。そして本来、Sさんが今やりたいこと・出来そうなことに手を出してみて下さい。そうこうしているうちに、今の辛い症状や気持ちが変化してくるかもしれません。

「どんなことがやりたいことなのか、出来そうなことなのか」がなかなか浮かんでこなければ、「症状がなかったら、どんな生活を送りたいのか」ということを考えてみると、ヒントになるかもしれません。是非とも頑張ってくださいね。応援しています。
(谷井一夫)

「ネットで調べるときに起こる悪循環」 '22.8 

Kさんは、コロナの不安、そしてその後は抗不安薬のことが不安で全般性不安障害に苦しんでいることを書きこまれています。

コロナ禍で私たちはさまざまな不安に直面しました。その中でも、感染リスクや感染そのものによる心理的な反応、環境の変化に伴う問題と併せて、情報による影響が挙げられている(日本トラウマティックストレス学会HPによる)ように、さまざまな情報に触れることで、不安が高まる経験は多くの人がしたことでしょう。

知りたい情報を得るために、ネットは非常に有効な手段です。森田先生の時代では、病気のことが不安になったとき医学書を読み漁る、という手立てしかなかったわけですが、ネットのおかげで私たちは多くの情報にアクセスできるようになりました。

けれども一方で不安を消そうとしてネットで調べて、そこに書かれていたことに不安になって更に検索したり、サイトによって書いてあることが微妙に違ってまたその部分が気になってしまったり、と悪循環が起こってしまいがちなのがネットの難しいところです。ネットについては、やはり「不安を消すための完璧主義」にならないよう、付き合い方を探りましょう。

薬については「私が使うもの(主治医に相談しながら)」という位置づけを取り戻しましょう。不安症で使う薬はよく「山登りの杖」にたとえられます。山道を歩くときに杖は頼りになるけれど、登っているのは自分の足。杖を使うことで急な坂道を上がりやすくなったり、場合によっては足が痛むことを防いでくれたりしますが、それは「杖が山を登っている」とは言わないですよね。

薬も不安と付き合いながら行動することを手助けしてくれますが、使うのは自分。自分が使っているものと位置づけたほうが、手放していくことも考えやすくなると思います。抗不安薬のやめ方としては、少しずつ減らしていくことが一般的ですが、やはり処方している主治医の先生と具体的に相談しながら進めていくのがよいでしょう。
(塩路理恵子)

「完璧主義を緩めてみては」 '22.7 

Cさんお辛そうですね。投稿された完璧主義のからくりは、いわゆる「強迫心性」から来るものと考えます。これは症状としての「強迫症(強迫性障害)」とは異なります。強迫症は、強迫観念や手洗い確認といった強迫行為からなりますが、「強迫心性」はより性格的な要素もあります。「強迫心性」には強迫性パーソナリティ障害に近い要素があります。

具体的には、「秩序、完璧主義、精神および対人関係の統制にとらわれ、柔軟性、開放性、効率性が犠牲にされる広範な様式」とDSM5というアメリカの精神疾患の診断・統計マニュアルに記されています。項目としては以下の中から四つまたはそれ以上とされています。

(1)活動の主要点が見失われるまでに、細目、規則、一覧表、順序、構成、または予定表にとらわれる、(2)課題の達成を妨げるような完璧主義を示す、(3)娯楽や友人関係を犠牲にしてまで仕事と生産性に過剰にのめりこむ、(4)道徳、倫理、または価値観についての事柄に、過度に誠実でかつ良心的かつ融通がきかない、(5)感傷的な意味をもたなくなってでも、使い古した、または価値のない物を捨てることができない、(6)自分のやるやり方どおりに従わなければ、他人に仕事をまかせることができない、(7)自分のためにも他人のためにもけちなお金の使い方をする、お金は将来の破局に備えて貯めこんでおくべきだと思っている、(8)堅苦しさと頑固さを示す、です。

一方、(森田)神経質性格とは、几帳面・完全主義・負けず嫌いといった強迫性、強力性の面と、内向的・神経質・受身といった内向性、弱力性の両面を持つ性格を指します。よって強迫性パーソナリティ障害の特徴は神経質性格の強迫性、強力性と重なります。ですので、「~障害」といっていわゆる「障害者」をイメージされなくて良いです。

細部にどうしてもエネルギーが向いてしまうと思いますが、それだけ全部吸収したい欲求が強いのかとも思います。まず課題をざっと読み、何が大事かを把握することも大事かと思います。決して何か「欠けている」のではなく欲求が過剰なのです。上記の性格特徴である「完璧主義」を緩めていくと良いと思います。

「完璧主義」自体決して悪いものではないです。どう生かすかという観点が大事です。我々はよく患者さんに「60%主義」と言います。「完璧であらねば」という構えを緩めて課題の意図を吸収することにまずはエネルギーを費やしていきましょう。すぐには実践できないかもしれませんので少しずつチャレンジしていってください。
(舘野歩)

「病気と健康」 '22.6 

Hさん。こんにちは。

一度心身の不調を経験されると、健康のことは心配になりますね。日々体調は変わるものですが、そのちょっとした変化でも、「何か深刻な病気の予兆ではないか?」と注意を向けると、実際にだんだんひどくなってくるような感じがしたり、あるいは、安心するためにインターネットを立ち上げたはずなのに、散々調べた後、かえって不安が増していることに気がついたり。また、検査の結果待ちの日々というのも、たいへんつらいものですね。考えても結果が変わるわけではないのに、ふと思い出していて、気がつくと家事や仕事をする手が止まっている、なんてことはよくあるものですね。

ひとたび不安が高まると、「なんとかしなきゃ」と居ても立っても居られないような気持ちになるものですが、そこで慌ててインターネットで調べ始めたりせず、時間を待ってみること。これはとても大切なことですね。不安になったその時はとても待てる気がしないと思いますが、何時間か経ってみると、わずかながら、心の中の不安が占める割合が減っていたりするものです。さらに何日か経つと、たまに忘れている時さえ、出てくるかもしれません。

それから、お書きになっているように、病気の心配を全くのゼロにすることはできませんが、その代わり、「健康でいたい」という願いに近づくためにできることはあると思います。たとえば、食生活を見直してみたり、運動の習慣を作ってみたり。健康のためにできることをやっていく。それもまた、病気に対する不安との付き合い方として大切なことなのではないかと思います。
(半田航平)

「自分に合った生き方を」 '22.5 

Aさんは今まで神経症症状をやり過ごしながら過ごしていらして、3月に41年勤めた職場をご退職されました。4月から再就職され、新しい職場は短時間でプレッシャーもなく楽しく老後が過ごせると思っていたところ、5月に入った頃から突然得体の知れない不安感を感じる様になられたのですね。

41年間お仕事お疲れ様でした。今までお仕事など外に向かっていたエネルギーが、今はAさんの内側への意識に向いて、症状として現れていらっしゃるのかもしれませんね。「新しい職場は短時間でプレッシャーもなく楽しく老後が過ごせると思っていました」「もうこんな年なんだからのんびり生きたいだけなのに心や感情ってやつは全く手に負えません。」という言葉も印象的でした。

森田療法では「こうでなくてはならない」という構えのことを、「かくあるべし」と表現します。一般的に、知らず知らずの内に自分の中や世間の「かくあるべし」のイメージに自分がとらわれて、それに合わせようとしてうまくいかないことがあります。

私も今週は疲れたからゆっくり寝て午前中は寝て過ごそうと思うことがあります。でもそういう時に限って実際日曜日になるといつもと同じ時間に起きてしまいます。じっとゴロゴロしても二度寝もできません。結局は起きて午前中に家事を済ませて動き回っていることがよくあります。そういう過ごし方は理想の休日とは違いますが、いつもと違う作業をしていることでリフレッシュはしているし、次の週も普通に過ごせるのです。いつもの習慣は急には変えられないし、自分は何かしていたほうが性に合ってるのかもしれないと最近は諦めています。

ゆっくりとした楽しい老後というイメージにもとらわれ過ぎなくてもいいのかもしれません。「幸せで他に悩みがない時ほど、症状だけに囚われてしまう事も思い出したので、周囲に目を向けていこうと思っています。」とご自身でおっしゃっているように、Aさんに合った今後の過ごし方を見つける挑戦をぜひ続けて行かれてください。応援しております。
(市川光)

「自ずと調和する」 '22.4 

Rさんは、自分の髪の毛(白髪)にコンプレックスを抱えており、外出などもままならないとのことでした。しかし最近は、出来る限り自分の「したい、やりたい」ことを行動に移し、その中で行動することの楽しさを少しずつ実感していると書かれています。不安を無くしてから行動しようとすれば、ますます不安の存在を意識するようになり、“とらわれ”の渦の中に入り込んでしまいますから、Rさんのように、不安はそのままに行動してみる姿勢はとても大切です!実際、動いてみることで新たな感覚を得たり、変化も感じられているのですから、大きな進歩ですね。

 ただ、いつもより不安が強い時は、行動したとしても不安が頭から離れなかったり、体の症状が出てしまうので、素直に喜んだり、自分を褒めることが出来ないとのことでした。ご自身でも「自分の中で完璧主義みたいなものがあるからだと思う」と書かれていましたが、まさに100点を基準にして、足りないところを減点方式で見てしまっているのでしょう。折角行動したからには、それなりの結果を出したいし、喜びを感じたいと思うのは自然な欲求です。でも、見返りを期待しすぎてしまうと、逆に期待通りにいかない部分(「純粋に幸せを感じられない」「確信が持てない」など)に引っかかってしまうのかもしれません。それゆえ、折角、行動や感情面で変化を感じているにもかかわらず、期待通りにならないのは何かが間違っているのではないか?と考え、どこかで正しい方法を求める気持ち(行動の基準がわからない、感情と行動のバランスが難しい)が生じてしまうのかもしれません。

 森田先生は、「人生は調和である」と述べています。では、その調和はどのようになされるのでしょう?森田先生は次のように書かれています。「私は腸が悪いために、飯を気長く嚙みこなすことをやっている。そうすると、こればかりでは気が焦るから、その間に新聞や手紙を読んだりする。それで丁度良く調和が保たれる。この調和があると、食物の味も良くわかるが、何もしないで噛むことばかりやると、気が焦って、かえって味がわからないというふうになる」。つまり、一つのことばかりを徹底してやろうとすると、逆に調和が取れず、新たな気づきも得られなくなるということでしょう。行動も、そこで感じることも、一つの方向だけを目指して徹底的にやるのではなく、色々やる中で自ずと調和が取れていくものなのかもしれません。行動にしても、どのくらいやれば疲れるのかは、その日の体力によっても変わるでしょうし、やっていく中で加減もわかるものでしょう。言い換えれば、完璧に(万全に)しようとするのではなく、色々なことをやっていく中で自ずと調和(バランス)が取れていくものであり、そこで見えてくるものがあるのだと思います。

 感情にしても、楽しいと感じる時もあれば、期待外れでげんなりしたり、不安に感じる時もあるでしょう。苦あれば楽あり・・・というように、不快なものがあるから、喜びはさらに強く感じるのが事実であり、それが心の調和に繋がるのかもしれませんね。Rさんが、まさに今色々行動し、感情を味わっていることこそが大事なのであり、その積み重ねの中で、自ずと心身の調和がなされるのではないでしょうか。
(久保田幹子)

「治ることの契機」 '22.3 

Mさん、こんにちは。体のこわばりや不安感といった症状に悩まされてきたのですね。これまで、クタクタになるまで行動しては、その反動で動けなくなってしまったり、好きなことをしてみたり日記を書いてみたり、薬を試してみたり・・・と試行錯誤されてきたことがうかがえます。その中で、最近になって沢山の気づきがあったようですね。

Mさんの気づきとして、「この不安感は自分で作り出したものなんだ」、「怖くて、不安になっていることは、自分の妄想や気持ちなんだ」、「不安はどうにもならないんだ」ということが書かれています。また、「働いた時は、緊張で自分の中ではめちゃくちゃでしたが、外から見たらきっとフツーの人だったと思います」ということも書かれていますね。悩みの性質が分かってきて、恐怖や不安とつき合えるようになってこられているのだなと感じます。

さて、Mさんのように、ご自身で色々な気づきを得ている方は多くいらっしゃると思いますが、治ることの契機は、どういうことがポイントになるのでしょうか。気づきを次へ繋げるためにも、このことについて少しコメントさせていただきます。

森田療法では、治ることの契機には二つの側面があるととらえます。
一つは、「感情の受容」です。これは、「不安は悪いもの」と感情を価値づけしたり、「あってはならない」と操作しようとすることを手放し、そのままの感情で過ごしていく姿勢を指します。実際には、Mさんの「少しわかったようなわからないような」というところから徐々に腑に落ちていくような流れが自然だと思います。

もう一つは、「行動の変容」です。これは、生活の中で、症状が理由で出来ていなかったところに踏み出してみる姿勢を指します。 Mさんが、「働いた時は、緊張で自分の中ではめちゃくちゃでしたが、外から見たらきっとフツーの人だったと思います」と、一歩踏み込んで仕事に取り組まれこともそうですし、この体験フォーラムにおいて、「自分の考えを晒すことで、少し勇気がいることだった」という思いがありながら、書き込みをされたことも行動の大きな変容です。

二つの側面において、これまでのあり方から変わってきたところがあるとしたら、治る方へ進んでいるとみていただいて良いと思いますよ。今後も、行き詰まりや気づきを繰り返しながら、人としてますます成長し、Mさんの良さが花開いていかれることを応援しています。
(金子咲)

「日中の生活を整えることが病気不安・不眠への対処」 '22.2 

Fさんは病気不安をきっかけに不眠になってしまったとのことです。長いこと眠れないのは辛いですね。夜眠れないときに、この先病気になったらどうしようと恐怖心がわいてくるのでしょうか。それとも不眠が続くと、恐れている病気になってしまいそうで、不安になるのでしょうか。

そんな中で、家事とできるときは実家の畑の手伝いもされているのはとても立派なことです。ぜひこれは続けてください。日中を規則正しく元気に過ごすこと、日中の生活を充実させていくことが、不眠へのこだわりを下げ、自分の自信にもつながっていきます。

症状がある中どのように過ごしていくといいか皆さんから学びたいと最初に書かれていたので、やってみてわからない点や聞いてみたいことがあったらまたぜひフォーラムに書きこんでください。

また、お父さまと「話して安心した時には苦しさを感じずに眠れたことがあり、精神的なものかなと思った」と述べられていましたが、Fさんには病気になったら○○ができないことが不安など、具体的な心配がありますか?もし思い当たることがあったら、どんな病気になることが恐怖なのか、その病気になると何が恐怖なのか、どんなことが心配なのかも、フォーラムにぜひ教えてください。

森田療法では不安になるのはそれだけ自分が大事に思っていることや達成したいことがあるから(不安と同じ量の欲求がある)と考えます。Fさんが失いたくないものや達成したいことがあるからこそ、それをおびやかす病気に対してとても恐怖を感じられるのではないかと考えて伺ってみました。

Fさんがどんなことに不安や安心を感じるのかを伺えたら、会員の方もまたアドバイスもしやすくなると思います。ここで話して、会員同士で助け合ってよくなっていかれた方がこれまでにたくさんいますので、ぜひ活用してくださいね。
(矢野勝治)

「今までどうやって対処してきたのかを思い出してみる」 '22.1 

Cさんは以前より雑念恐怖と疾病恐怖がありましたが、これらの恐怖とは何とか共存できていたそうです。しかし、更年期になって、体調不良が続き、さらには難聴になってからは、眠れなくなり、色々なことが不安になってきて、今まで頑張ってきた自分が認められなくなりそうと困っていらっしゃいます。

Cさん、難聴になって、不眠になって、不安が強くなって、という状態は辛いですね。特に感覚を奪われるという恐怖はかなり強いものだと思います。さぞかし心配されたことでしょう。

誰しも体調不良になれば、自分の体が心配になりますよね。それ自体はとても自然なことだと思います。ですから、「不安になって、眠れなくなって、自分はダメだ」というようにそのことで、自分を責めたり、否定したりする必要は全くありません。

そもそも、Cさんは今まで神経症症状と付き合いつつ、生活を送られてきたのですね。それはとてもすごいことだと思います。まずは、その事実を忘れないで下さいね。その上で、それらの不安と今までどのように付き合ってきたのか、思い出してみましょう。

「病気になるのではないか」という不安と「実際に病気になった」不安というのは少し質が異なると思います。ただ、不安には、そればかりに注意を向けて、それをなんとかなくそうとすると、ますます強まるという悪循環の性質があります。この悪循環は「病気になるのでないか」という不安も「実際に病気になった」不安も共通して生じるものです。

おそらく、Cさんが不安と付き合えていたときは、不安は不安のままに、その不安は棚上げして、今出来ること・やるべきことに手をつけていたのではないでしょうか。

今、Cさんが出来ること・やりたいこと・やるべきことはどんなことでしょうか。旦那様や娘様にしてあげたいことはどんなことでしょうか。あるいはご家族とどのように過ごしていきたいとお考えでしょうか。不安で辛い今だからこそ、どんなことでも構いません。何か手をつけてみてください。以前恐怖と共存出来たCさんなら、「現状を打破したい」と思っているCさんなら、今も同じことが出来るはずです。是非とも頑張って下さいね。応援しています。
(谷井一夫)

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