
私にとって95年から96年にかけて、強迫観念の中で有頂天と奈落の底とを味わった今では貴重な2年間でありました。96年11月に森田理論の基準型学習会を終えて、多くの方々のお陰で「かくあるべし」という「とらわれ」から解放されるようになり、今、新たに現実の世界が少しづつ広がろうとしています。私は、森田理論によって「仕事一自分=ゼロ」人間の危険性を学び、仕事以外の事にも興味を持てるようになり自然や音楽が美しいと感ずることの意味を知るようになりました。
振り返ると、今でも恐ろしい体験として蘇ってきます。95年9月半ばの休日の夕方、その日はいつものように張りつめた緊張と慢性的な疲労を感じながらも期限の迫った書類をやっとの思いで書き終えて、自宅の窓からは涼しい秋風を受けながら、しばし、うとうとと眠っていました。すると突然、恐怖感が全身を走り、頭の中が波打つのを感じました。
部屋には涼しい風が入ってきているのに着ているものはびっしょりと汗で濡れていました。それからは、頭や体がピリピリして、起き上がるとフワフワして雲の上を歩いているようになり、座ろうとしてもソワソワして、じっとしていられない。
テレビをつけると画面に映る人物に恐怖感を感じ、会話や音楽が雑音のように何の意味も持たず、ただやかましく耳に響くだけでした。新聞を見ても文字がチラチラ浮かび上がって読めない。窓から風景を眺めると見馴れた景色なのに現実感が無く、見知らぬ町へ来たような離人感に襲われ、遂に自分の頭が狂ってしまったのかと愕然として、鏡に写る自分に「助けてくれ」と声にならない叫びを発していました。
あの日を境にして、人間なら誰でも起こる頭痛や目の疲れや動悸を異常に感じ、その異常を無くそうと誤った努力をすることにより、次から次へと身体的症状を固着させるとともに意識が内に向かって貼り付き、そして深海の海の底にいるような苦しくて情けなくなるような抑うつ状態の中で毎日もがき苦しむようになっていきました。
今振り返ると、あの日よりすでに半年前の95年4月に住み慣れた町からA市へ転勤と同時に管理職になり、張りつめた緊張と疲労感がつきまとい、ひどい肩こりと胃の痛みが続くようになり、この頃は既に神経症の準備段階に入つていました。しかし当時は原因が分からず序々に仕事上の悩みを深めていくのですが、あの恐ろしい体験をきっかけにその後は精神交互作用によって一気に泥沼へ滑り落ちていきました。
不眠症が始まり、寝ようと意識すればするほど眠れなくなり、熟睡感がまったく感じられず、毎晩、蒲団の中で、のたうちまわる日々が続きました。不眠症とともに次から次へと身体的に「とらわれる」ようになりました。夜中には何回となくトイレに行き、呪うように朝を迎え、フラフラして起き上がると顔面の上半分がヘルメットを被っているような感覚、全身は痺れを感じ、いたるところに痙攣か走りました。手足の関節は痛み、呼吸は浅くなり大きなため息をつく。眼精疲労がひどく、景色は霞がかかったように白く見える。胸のあたりの圧迫感、口の中は常に乾き、歯が締めつけられるような圧迫感、手足は乾燥し、かゆみを覚える。食事は味気なく臭いも鈍感になりました。
一人、自宅を出て会社までの道をトボトボと歩いて行く。現実感がまったく感じられず、頭の中は支離滅裂となり「生きる意欲もなく、このまま植物人間のような生活を一生続けるのだろうか」「死んだほうが楽だろうなあ」と途方に暮れる毎日が続きました。
95年11月、12月頃、すでに仕事の葛藤から症状との葛藤へと変化しており本来の欲求が見えず症状を取り除くことばかりを考え、手段の自己目的化という誤った行動を繰り返していました。会社が休みの日はいつも病院へ通い、「ぐち」を言っては医者を困らせていました。その頃は体の諸症状に加え、記憶力減退や活字恐怖、対人恐怖、確認行為にも発展し、人の話を聞いても意味がわからない、同じ道を車で何回通っても覚えられない、簡単な足し算や引き算ができない。そしてとうとう大切な仕事の書類が理解できなくなってしまいました。営業の仕事なのに人に会って話をするのが苦痛でたまらない。トイレに逃げ込んでは、そんな惨めで情けない自分の顔を鏡に写し、自分を責め立て、自分のやり切れなさを嘆き途方に暮れていました。
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毎日、「もう治る見込みがないという絶望感」と、それでもまだ「何とか治してもう一度元気に仕事をしたい」という強い葛藤を持ちながら、度々書店に足を運んでは、自立訓練法や瞑想そして精神分裂病の本を読んでいました。ある日、何気なく手にした本が真保弘著「自立神経失調症の正体となおし方」でした。本の内容に感動するとともに、早速、96年1月より生活の発見会に参加しました。これまで散々誤った行動を繰り返していた私にとって森田療法は最後の助けであり、暗闇の中を僅かに差し込む一条の光を求めて必死に取り組みました。まさに「機が熟した時」であったと思います。
症状はあるがまま。形を崩さない。仕事を休まない。生活のリズムを守る。灰皿替えや蒲団の上げ下ろしをする。毎月送られてくる生活の発見誌の体験記を繰り返し読んではアンダーライン引きノートに書き写す、森田の関係書籍を次々に読み、外出する時もお守りのように持ち歩きました。集談会の参加も1カ所から3カ所に増え、やがて基準型学習会にも参加しました。その当時は抑うつと離人感のなかで、覇気がなく森田理論で言う「生の欲望」がまったく感じられなかったのですが、今思うと「治したいという欲望」だけは強かったように思います。
集談会には毎月参加し、必死に森田理論と取り組んでいましたが、半年間は症状の浮き沈みがあり、森田療法では治らないと思った時期もありました。脳神経科に行き担当医にせがんで脳の精密検査(MRL、CT)を受けました。脳検査の結果、「老人性痴呆症」という診断を受けたこともありました。症状に振り回されて、やめようかと思った時期もありましたが、集談会の世話役を引き受け先輩方の暖かい支えによって、1年間休まずに出席できたことが結果的に症状から解放される近道であったように思います。
それから間もなく本社勤務の辞令をうけました。営業職から本社スタッフとなり、今までの絶え間ない緊張と精神的な重圧から解放されると同時に、症状からも解放されるようになりました。
あれほど苦しかった症状の解放は、管理職から再び一般職への降格人事という環境の変化によって実現しました。
今思えば、世捨て人になる一歩手前で森田に救われました。私から仕事を取ったら何も残らない硬直人間であることを、神経質症に陥り森田を知ることによって自ら証明することになりました。そして仕事は重要であるが人生の全てではないということ、仕事と同じように家庭や地域活動、そして趣味や自然を愛する気持ちを持つことが人間としての幅を大きくすることを森田は教えてくれました。
幼い頃から劣等感を持ち続け、そして生活の幅をどんどん狭めていったことが神経症に陥る結果となりましたが、それは当然の結果でありました。
私と同じような苦しみを乗り越えて今はいきいきと活躍されている集談会の人々に励まされて、今まで自分を否定し続け、いじめぬいてきた自分をやっと受け入れることができるようになりました。
それでは神経症になる以前の自分と、今、現在の自分とを比べると何が変わったのでしょうか。人と比べて劣等感を持つこと、つい頭の中だけで答えを出しがちなこと、中途半端で理解して後で応用がきかなかいこと、人から注意を受けるといつまでも気にしてしまうことなどの性格は相変わらず持っていますし、頭の悪さ加減も以前と変わっていません。
ただ、長年にわたって繰り返してきた誤った行動と引っ込み思案と目的本意の具体的な努力をしてこなかった結果、すなわち経験不足と知識不足とからくる問題解決能力の乏しい自分自身が目の前に大きく横たわっているだけです。
以前の私はただ大きなため息をつき、ふがいない自分から目をそらすことばかり考えて実際の自分を真正面からみようとせずいつも背伸びをしてきました。
しかし、もう背伸びをする必要はないと思うようになってから灰色だった日常生活が色づきはじめ、平面のよな景色が立体感を帯びて身近に感ずるようになりました。そしてもう一度基本からやり直そうという希望をもてるようになりました。
私は言い尽くせないこの2年間の出来事は、決して忘れることはないでしょう。
死の淵から私を救い、以前よりも活動的な日常生活を送れるようになったのは、まさしく森田のお陰です。そしてこの2年間の出来事を完全に忘れ去るまで今後も森田的生活を続けていくつもりです。
1997年 9月20日
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