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【体験談】「森田」を生かし自分を生かした10年

10年前に森田の実践を始める

窓から望める景色は、秋です。今年も、稲は色づきました。風は夏を払うようにただよい、光は影まで透かすように白く、万物にそそいでいます……。私が発見会に入会しましたのは、昭和51年の春でした。そして、森田実践にはいりましたのが、ちょうど今の季節、その年の秋でした。当時は、風景にも色が感じられず、ただ呼吸をしている生き物でした。元来、対人関係が苦手で、健康のことを気にしたり死を意識したりするヒポコンドリー性基調を持つ私。そんな私が、出産や、ご近所の奥さまの突然の死等をきっかけにして、病気や死を極端におそれるようになりましたのは、昭和46年ごろでした。その当時、しだいに身体の様子に過敏になっていくなか、食事や部屋の掃除など、病気にならないように注意を払いました。そうすることによってますます注意が身体に向かって、必要以上の手洗い、うがい、消毒と際限なく拡大していきました。これではいけないと、自分で気づいているものですから、このようなことに固着する自分の性格を変えようと、一人で本を読んでがんばったのです。……が、結果は、劣等感と孤独の神経症状態でした。この「とらわれた自己」と「醒めた自己」が闘った数年、力尽きると感じました。そして最後の力をしぼり出すようにして、森田実践を始めたのです。

あれから10年が過ぎました。現在、着物着付け指導と合わせて、美容院を経営しています。現在は日々生きるための悩みはあっても、疾病恐怖、対人緊張などの心のとらわれはありません。

深層にある「よりよく生きたい自己」と、日常生活を果たす「表層の自己」が、「森田理論と実践で確立された自己」によって、調和しています。さて、世の中には不条理なことも多々あります。やさしい人、理不尽な人もいます。自分の心のなかでも、美しいところもあれば嫉妬心やうらみなど、みにくい面もあります。そして私は、いろいろな意味において、神経質傾向をもっています。このような事実を、10年かけて納得したのです。

実践には年数をかけましたが、しだいに事実を受容できるようになりました。そのうえで、自己実現のため努力して生きています。驚いたことにこの姿は、通常の人々にとっては「あたりまえ」でした。「とらわれ」の世界を脱するとは、不条理の世の中を、もろもろの困難に耐えながらも生きていく自覚をもつことでした。

目的をつかみ、相手の身になり

それではこの10年間の森田実践の様子を、大まかですが述べてみます。最初に、実践は私一人のカで前進したのではなく、姫路集談会の仲間や一般社会のすばらしいかたがたのお力添えがあったことを報告し、深謝いたします。さて、私たち神経質者は、自己内省性・心配性・幼弱性・執着性と、強い生の欲望が性格特徴といわれます。森田実践は、このなかの「よりよく生きたい欲望」を少しずつ満たしてくれる生活行為です。その段階において自己の実態と現実の社会を識っていきました。

51年ころの私は、万策つきて、反発の力もありませんでした。森田の先輩から「相手の身になって、まわりのために尽くしなさい」と言われると、そのとおり、朝早く起きて夫を送り出し、幼い子どもに食べやすい食事をつくってやりました。このような家事は、それまでもかろうじてできていたのですが、「目的」が違いました。たとえば、葛藤のなかでの行為は食事をつくるだけが目的でした。森田実践は、どのような食事をつくるかが目的です。幼い子どものため、どのように工夫するかが「目的」に変わったわけです。しかし、これは主婦としてあたりまえのことで、だれも認めてくれません。自分で、自分を認めてやりました。できた結果を評価しました。また、そのころ、友人のすすめで子どもの入園式にそなえて、着付け教室にかよいました。人間がこわくて、病気がこわいだけの私は、ロボットのごとく単に出席している状態でした。教室の人たちが、美しく着物を着られるようになるのを眺めて、着られない自分がみじめでした。

ただし、上手になりたい欲望があるのかと問われれば、内面にしっかりとあります。それでは、着物が着られるようになる「目的」を果たさなくてはなりません。そこで、感情の葛藤をそのままにして、手足は目的を果たすために使いました。こうして同期生に遅れながらも1年後には、着られるようになりました。感情と行動を切り離す理論を、体験を通して確認したのでした。2年目。着付け教室の助手になったとき、苦痛な人間関係にくじけそうでも、生徒の皆さんが覚えやすいような内容の授業を目的にしました。今度は人から「わかりやすい」と評価が返ってきました。他の人に認められるとうれしいものです。そのうれしさをもとに、さらに技術訓練を重ねて3年目に講師となりました。4年目。35歳で美容学校に入学しまた。親先生から「婚礼着付けをするためには、美容師のライセンスを取得した方がいい」とのアドバイスと、私自身のプロになろうという内面の願望を認めたからです。1年間の理論学習を終えた後、1年間の実地訓練を受けて、美容師国家試験の受験資格ができます。

36歳のシャンプーガール

5年目。美容学校を卒業いたしました。しかし卒業後、美容室での実地において大きな壁に突き当りました。シャンプー技術の訓練で、お客さまの髪がさわれないのです。それに、不特定多数のお客さまがこわいのです。美容室の鏡が見られないのです。だから、鏡は見ないことにし、シャンプーはゴム手袋を使用することにしました。……が、ゴム手袋が訓練先の先生にみつかりました。ゴム手袋は、髪を引いてお客さまが痛いおもいをなさるので、必要以外の使用は禁止です(毛染の場合は使用しなければいけません)。「相手の身になって仕事ができないのなら、プロにはなれないから今後を考えるように」と、強いお叱りを受けました。私は、美容学校をペーパーテストの上ではよい成績で卒業していました。その結果、美容に関しては何もかもわかっている錯覚に陥っていたのです。年配で、もう時代遅れの技術に思えていたインターン先の先生が、「お客さまの身になれなければ……」といわれたとき、衝撃を覚えました。有名でもない普通の美容室の先生が30年間、その考え方で仕事をしてこられたことに気づかされ、自分が恥ずかしくなりました 。それと、インターンを修了して修了証明書を得て、やはり国家試験を受けたいという欲望を自覚し、次の日からゴム手袋を脱ぎシャンプー技術の訓練にはいりました。疾病恐怖の私は、心から血がふきでるほど苦痛でした。シャンプーの目的は、頭毛・頭皮の汚れの除去と、頭皮のマッサージにあります。きめられた時間内に、ムダのない手の動きやシャワーの使い方をして、なおかつお客さまに、満足な気分になっていただかなければなりません。学校のペーパーテストでは満点がとれたのに、実地ではどうしてもうまくできませんでした。


力のかかる右足裏にうおのめができて、指の指紋がなくなって、お客さまが認めてくださるころには1年が過ぎていました。36歳のシャンプーガールは、若い同級生を、いとおしく思うようになっていました。自分だけではなく、皆この道を歩いているのを見ているからです。つまり、先生や先輩の助手をつとめながら技術を学び、さらにお客さまの身になって動いていく……その連続です。このような技術習得に励む若い人の群にはいって、神経症の「とらわれた精神状態」は小さくなり、目的を果たす行動に重点を置ける自分を確認しました。それに、鏡が見られないのも、お客さまがこわいのも、サロン内部での人間関係に泣くのも、神経質症の人間に限ることではない事実を目のあたりにみました。ただ、私の場合は先輩がほとんど年下です。自己主張欲、虚栄心等、強い自我をもつ神経質者にとって、森田の「目的本位」をあてはめていなかったら、多分、挫折していたと思います。6年目。無事インターンを修了し、国家試験も合格、ライセンスを手にしました。その後、各種訓練を重ねて、後輩を指導する立場になりました。技術習得とは、素材を生かすこと、相手を生かすことです。自己中心であった若人が、人間関係の軋轢やもろもろの不安に苦しみながらも、一歩一歩と階段を登り「大人の人間」に成長していく姿は、みごとでした。それはまた、30代後半で彼らの列に加わっている私の再教育の姿でもありました。それまでの自己中心の偏った視野の濁りが溶けていくようでした。いかなる運命のもとでも、それぞれに努力してみんな生きていることに気づかされました。

まず家庭、それから自分の世界

さてこの間の仕事と家庭とのバランスはどうしたのか……。何しろ二人の子どもを出産した後の自我との格闘です。観念の世界で堂々めぐりをした末、まずは「母親であること」、「結婚していること」、「女性に生まれていること」を認容しました。

何よりも、二人の子どもを「生んでいる」事実に対して、言いわけは成り立ちません。まだ自分の力で生きていくことのできない幼子です。自分が生んだこの幼子たちの世話を放棄しなければならないほどの、何か才能を持っているとは思えませんでした。ですから、その子どもたちの世話をするのが、この世に生まれた一番の役目だろうと、「自問の結果」決めたのです。私のなかの強い自我を生かしてやることは、育児、家事の後に順番づけました。

森田でグチを言わない″と教えられています。まず家庭、それから自分の世界と、もくもくと動きました。美容師ライセンスを取得したころ、母が「ようがんばるね」と声をかけてくれました。「仕事をもつ女性を妻にする気はなかったし、また、した覚えはない」と家事の手抜きを許さなかった夫の目が、管理美容師になったころから、変わってきました。着物の世界に入って10年……気がつくとシャンプー技術から婚礼着付けまでのプロとして、家族ならびに社会のなかで認められていました。こうして、「よりよく生きたい」欲望の燃焼は、「とらわれ」を小さくしていきました。小さな努力の積み重ねで、知らず知らずのうちに、自己の存在価値が認められ、さらに欲望も分相応に満たされたのです。

自我を生かすのが「森田」

子どものころ祖父とあい継いで父を亡くし、生家は崩壊していきました。まわりの大人たちが気にもとめないほど幼なかった少女は、人々の争いや中傷を陰からながめていました。それで、自分が傷つきたくないために人間を恐れて、貝がふたを閉じるように心を閉じた方が楽でした。でも人間は人間に大きな影響を与えるものだ……と気がつきました。

小さいときの心の傷を舐めながらの森田実践の最中、素敵なかたがたに出会いました。そのかたがたのおかげで、どんどん変化していく自分を見たのです。生きていくかぎり、人間同士出会っていくわけですが、傷つき合うのを恐れず、雑多なことを積み重ねて、感性が響き合う努力をしなくてはいけないのかもしれません。子育てもそろそろ終わりに近づきました。子どもは大学生と高校生になり、私の背丈を越しました。10数年前、この子たちが大きくなるまでは「親」は、病気になってはならないとあがいたのです。それと私の神経質を子どもに持たせることを極端に恐れました。彼らは私が生んで育てたのですから、似たところがあるのは当然ですが、それが彼らにとって決定的なものではありません。親のコピーではなく、おのおのの人格をもった人間で案ずるものではありませんでした。この10年間をふり返ってみますと、森田療法を知ってこのような「生き方」になりました。逆になりますが、もし森田を知らなかったら、おそらく、体をこわすか、家庭生活を犠牲にするか、自我の燃焼を放棄していたと察します。途中で、身体的にも精神的にも、私にとっては限界だと思えたときが多々ありましたが、「今、何が大切か」「そのためにどうすればよいのか」の森田の問いで危機を通過しました。生きるための大きな問いにも、日常生活の雑多なことにも「行動に意志をはたらかせて」感情を創りあげる森田がアクセルになったり、ブレーキになったりしたのです。

内包のうえの自己主張

限界だと思えた時点では、心に沸くもろもろの感情と目で見える現象とを、そのまま、まず内包(受容)させました。内包させてのち、森田の問いで得た答を生きる指針に選択したのです。

このまず内包という点で着物の勉強から、日本の精神文化と森田とが重なる気がしたのです。たとえば、柔らかい女らしい躯を直線裁ちの着物で直線的に包み込みますが、その姿のなかにははっきりと自己主張がなされています。紋であったり、小物の始末であったりしますが、それは今、私たちが考えたことではありません。長い歴史を経ています。プロポーションをはっきりと表わす曲線裁ちの洋服と少し違う感覚です。どちらが良い悪いは別として、内包の上、自己主張がなされている伝統に、魂がゆれました。もろもろの葛藤から楽になりたくて、必死で森田を実践して、結果として、まわりとの調和のうえに私の領域が築かれていました。「とらわれ」の苦悩のなかにある仲間たち、さぞ苦しいでしょうね。森田の実践もまた、つらいことですが、人間も世の中も、すてたものではありませんから希望を持 って下さい。


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