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体験記(「生活の発見」誌 一九八三年三・四月号掲載)

一.はじめに

 (財)メンタルヘルス岡本記念財団のある方から、私の体験記を、同財団のインターネットのホームページに掲載したい旨のお話を伺いました。長年、神経質の悩みで苦しみ、森田療法とそれを実践する生活の発見会活動に参加したおかげで、元気に自分らしい生き方を身につけることができるようになった者としましては、同じような神経質の悩みで苦しんでおられる方々のお役に立つことは大変嬉しく思います。生活の発見会活動を通して、私自身も後輩の方々の立ち直りに若干でもお役に立てることの願いと喜びを感じ続けてきました。また、この活動を通じて、自分自身が成長してゆけることの喜びなどを感じながら、お役に立つことは出来るだけ引き受けてまいりました。

 しかし、今回は、インターネット通信という無限に拡がる媒体に若干躊躇を覚えました。不特定多数の方々まで対象とすることへの躊躇です。特殊な悩みとして、偏見を持って片づけられてしまわないかとの心配もあります。  しかし、ある統計によると、日本人のうち60%以上は神経質傾向だと聞いたこともありますし、人の悩みや、強迫観念上の心の動きも、人間性の事実として広く共通のものであることを知るようになりました。悩みの最中にあるときは、自分の悩みを特別視し、異常視してきたのですが、その克服の過程で少なくとも神経質者の人々には、私の悩みを十分理解してもらえるものであることを知るようになりました。 また、神経質者以外の人々でも、人間の心の動きとして、この特異と思っていた悩みを理解できるものであることも、徐々にではありますが知るようになりました。

 「森田」と「生活の発見会」によって救われ、「森田」の生き方の素晴らしさを実践を通じて知る者として、そのご恩にわずかでも報いるためにも、より多くの方々に「森田」を知っていただくことは、とても嬉しいことでもありますので引き受けさせていただきました。 あらためて現在に至るまでの人生を振り返って、大きな感慨を覚えております。そして、この総括の機会を与えられましたことに感謝いたします。

 窓の外の冷たい雨のように厳しいことが多かった人生。しかし、その味わい深さ。ありがたさ……。戦前の厳しい時代に生をうけ、しかし、暖かく大切に育てられた幼児期の柔らかな時代。そして、次第に現実の厳しさに傷つきながら成長してゆき、“どう生きるか”に悩み、さまよいながら出口も見つけられなかった長く暗い歳月。やがて、人生も半ば近くになって、真の出会いとなった森田。そこで徐々に、それまでの生き方、考え方の間違いに気づきます。「小さいことにクヨクヨするな」などと、世間で常識のように言われている言葉に影響され、知らないうちに人間性に反した無理な生き方をしていたことに、徐々に気づきます。それは封建主義の名残や戦前の富国強兵策、戦後の詰め込み主義の教育なども相互作用した歪んだ人間形成につながるものでありました。このような人間性に反した考え方や行動パターンは幼児期からの教育などを通じ、長い間に植えつけられ、たたき込まれたものであり、それを改めるのは容易なことではありません。

 しかし、本来の人間性に根ざした自然で柔軟な生き方をするためには、まずこのような人間性に関する間違った考え方や行動に気づき、方向転換してゆく必要がありました。 最初は知識としての「森田」を理解し、共感することから始まり、それを指針として、おそるおそる実践する中で、次第次第に「森田」の考え方が心の底からわかるようになってきます。その過程の中で、徐々に、困難を極めた実生活が少しづつスムーズに動くようになってきます。理論と実践という車の両輪をバランスよく動かす中で、私の人生が大きく変わってゆきました。やがて、いつか人生の味わい深さに気づき、それを教えてくれた「森田」の偉大さに気づかされました。

 「森田」を学び始めた当初は、自分のような極めて複雑で強固な強迫観念にとりつかれた者は、特異な存在であるから、いくら「森田」であってもその悩みから解放されることはないとの思いが強くありました。しかし、森田は科学ですから、法則に正しく素直に従ってゆけば、必ず誰でもその人らしい自己実現が出来ることがわかってきます。森田に出会い、強固な強迫観念の悩みから解放され、自己実現してゆく道を知ることができましたことは、私の人生における極めて大きな幸せと感じております。もし、森田に出会っていなかったら、と思うとぞっとするぐらいです。「症状森田から生涯森田へ」……ある方が言われた言葉が生活の発見会のキー・ワードの一つとなってしまいましたが、森田は神経質の悩みを克服するために役立つだけでなく、生き方を教えてくれます。当初は、神経質症の悩みを克服することしか念頭になかった私でしたが、やがて、いつの間にか「森田」を人生の指針とさせていただくようになりました。今、あらためて人生を振り返り、あのどうしようもないほど困難だと思っていた神経質の悩みを克服できた事実を、心から嬉しくありがたく思います。

 しかし、今となれば、単に神経質の悩みの克服だけでなく、人生の諸々の場面で森田を大いに活用して、生き生きと自己実現できるようになったことは、それにも勝る大いなる喜びであり感謝すべきことであります。 そのような理由から、単に神経質症の悩みの克服の体験談のみにとどまらず、克服の途中あるいは、それ以降に職場・家庭・地域社会などの大切な場所で「森田」をどう生かしたか、あるいは「生かさざるを得なかったか」という事実を、「実生活と森田」というタイトルをつけて、体験記の後に述べさせていただこうと思います。

 私の悩みの原点としての神経質症……。これの克服の大変さは筆舌に尽くし難いものがあります。そして、この悩みは、私の性格としての神経質の長所とも強く結びついていて、今ではこの悩みを否定するという姿勢ではなくなってきて、むしろこの悩みとも共存しながら生きているという姿勢をとっています。悩むことが、自己実現の原動力と思えるようになってきたからであります。 「悩む」と言う言葉自体、うっとうしいことですし、事実「悩む」ことはうっとうしいことなのですが、もし悩まなかったら成長・発展はないと、今は心の底からそう思っているのです。悩むことがいろんな可能性を生んでくれていると心から思っています。

 私は、昨年、60歳という年齢を迎えるにあたり、定年延長を終了して人生上でもひと区切りをつけました。ひとつの会社で、その職業を全うすることができた喜びをかみしめています。しかし、そこでの人生は、私の心の中では本当に波乱に富んだものでした。たとえ一見幸せそうに見えていても。そして、現在も90歳になる父の介護に明け暮れる生活の中にあります。父は私の会社生活終了の3ヶ月前に脳梗塞で倒れ、約3ヶ月入院し、その後、右半身不随のまま寝たきりとなり自宅介護を続けざるを得ない状況にあります。しかし、これも、今の私に課せられた人生のつとめと受けとめ、精一杯に生きています。それも「森田」で教えられた「目的本位」に「あるがまま」に、そして「なりきる」「生ききる」生活の中で、「自己実現」していると感じ、今を精一杯生きています。悩みの最中に、人生の方向や生きる意味などを全く見失って途方に暮れ、現実的にも行き詰まっていた頃のことを思うと感慨無量であります。

 今、こうして充実した人生を送らせていただいている原点、出発点はまさに、悩むことにあったと言っても過言ではありません。そう意味で、今回のまとめにあたっては、私らしい人生の出発点となりました神経質症の悩みとその克服についての体験記を、最初に記させていただくことから始めたいと思います。


第1回「とらわれのきっかけ」

 私は、三人兄弟の長男として、両親の愛情をうけて、しかもきわめて過保護に育ちました。育った時代が敗戦の暗い時代であったためと、神経質で憶病な性格と、過保護による適応不安などが影響して、育った家庭環境のわりには、大らかな人間とはむしろ反対に、大きくなるにつれて、取り越し苦労が多く、心配性な人間になっていったように思います。そしてできることなら外に出るよりも家の温かい環境のなかでいつまでもいることができたらいいのにと願ったりしました。

 そして自分のようにプライドの人一倍高い人間が、どうしてこんないまわしい嫌疑恐怖で悩まないといけないのか、こんなみじめな思いをしなければならないのかと、弟たちとひき比べて、長い間、自分の性格を呪ったものでした。

 嫌疑恐怖のとらわれへのきっかけのひとつは、戦後間もなく、小学二年生のころの近所の友だちの自動車事故でした。当時、はやっていた遊びに「ろくぶて」というのがあり、「手袋の反対なあに」との問いに「ろくぶて」と言って逃げる子を追いかけて門から外にとび出したとき、逃げた子がちょうど、坂道を登ってきたトラックに片足をひかれ、ひざ下から切断するというショッキングな場面に出くわしたのです。

 ところが、一緒に遊んでいたうちの一人が、無責任にも「君が追いかけて、後から押したのではないか」というような事実無根のことを他の人に言ったので、私はその場で否定し、家に帰ってからも母に「僕は絶対に押していないのに、押したと言われてくやしい」と憤慨したことや、片足をひかれた子が退院してきたとき、その子に私が押したのでないことを確認して、安心したことを覚えています。他人の悪意や思惑を気にする芽が、このころから生まれていたと思います。

 小学校六年のころに当時、小学館から発行されていた月刊誌「小学六年生」に連載されていた「ぬれぎぬ小説」にひきつけられ、盗みの濡れぎぬを着せられた主人公の少女に痛く同情し、子ども心にも疑われること、落としいれられることの恐ろしさにショックを受けました。

 そして中学一年のとき、小学校以来のクラスメイトでありながら、競争相手として先方が親子で露骨に対抗心をもやしていた友だちがいたのですが、昼休みに鬼ごっこをした後で、その友だちが「五百円がない」と言ったのをきっかけに、あのぬれぎぬ小説のように、万一疑われ、おとしいれられたらこわい、彼ならそういうことをするかもしれないという考えにとらわれ、なんにもやましいことがないのに、内緒話に赤面したのをきっかけに、本当に自分を疑っているように思いこみました。

第2回「救われたいと信仰をもつ」

 それ以来、関係念慮で物を見る習慣、赤面や対人恐怖的な強迫観念が次第に身についてしまいました。しかし外見は、素直で真面目な優等生として、先生にもほめられ、両親も自慢の良い子でした。高校三年の受験期においてさえ、友人から、何の悩みもない幸せそうな人だと言われたりしました。そしてこれらのほめことばと「つねに悪意でみられているのではないか」という私の心配との余りの矛盾を、どう解釈してよいのかわからず、しかし気分的には、やはり、この人も私を心底から信頼してくれていないはずだと、寂しく思っていたものでした。主観と客観の違いなどには、まったく思いも至りませんでした。

 大学に入ってからは、クラブ活動の合宿等で共同生活をする必要があるのに、できるだけ避けられるものは避けていましたが、これでは社会に出てから困るという心配から、父が信仰しているある宗教の信仰を熱心にやり、いつかこれにより救われることを期待しておりました。

 以後十五年余りも、心の平安を求めて、間違った信仰のしかたをし、「私は強い」、「恐れない」というようなことばを自己暗示しては何とか不安のない強い自分に変えようとして、結果的にはとらわれを深めていたのでした。

 神の存在を自然に自己の魂に植えつけてくれたことなどは、この期間の信仰のおかげではあり、感謝すべき点は多々あるのですが、観念的な傾向の強い神経質な私には、合わない宗教だったと思っています。

 大学四年ごろには、私の神経質症的な苦痛の訴えを心配して、父が森田療法関係の図書を買ってきてくれました。一時期、自分にぴったりのように感じて、つらいときには本を開いて勉強していたころもあり、この影響もあって昭和三十七年に就職してからも何とかつらいのを我慢して、社会生活をやってきました。昭和四十二年には、同じ信仰のかたの紹介で結婚し、四十三年には長男も生まれました。

第3回「誤解されることを恐れて」

 しかし森田療法については、半わかりのまま放置して、世間の偏見もあり、「ノイローゼ」ということばは大嫌いでしたので、結婚するころには森田関係の図書も隠してしまっておりました。そして、その後も嫌疑・誤解恐怖、対人恐怖などから逃がれようとして、森田療法よりも、第三者から神経質症と思われなくてすむ信仰の方に熱心になっておりました。

 しかし症状は固着しており、サラリーマンとして順調にのびてゆくためには、神経質症的な自分を会社に知られては困るという恐れもあり、対人緊張的な心の動きを隠そうとして、かえって症状を深めていきました。

 会社では、出役して出先から自宅に直接帰るような場合に、仕事をさぼったと思われないかと心配したりとか、少しでも疑いや誤解されそうなことからは、できるだけ遠ざかろうとしたり、いつも取越苦労をしておりました。自分が好意的に言ったことばが、かえって逆にうけとられたのではないかとかの、取越苦労もたえませんでした。他人が不機嫌な態度をとったりすると、何か誤解されているのではないかとみじめになったり、失礼さに腹を立てたりしました。

 そして極端な場合は、自分が疑われたり誤解されたりしていないことを、その人に直接聞いて安心するという気休め行為を、会社でもいく度かしていました。

第4回「盗難事件をきっかけに」

 私が症状のために決定的に落ち込み、身動きのできないくらい心の自由をなくしてしまったのは、生まれてはじめて東京本社に転勤になった翌年の、昭和四十八年の夏ごろのことです。会社は日本有数の旧財閥系の不動産会社で、社員はエリート意識がきわめて強く政財界や名家の子弟が多くおり、親類も殆どない東京で、同期入社の全員が東京に一緒に勤務することによって比較されているという意識からの緊張のほか、直属上司二人の対立のすぐ下にいての精神的な葛藤などの困難な環境条件に加え、昭和四十八年春、課長代理に昇進して、これからますます一生懸命がんばらなくてはと思っていた矢先に、会社で起こったショッキングな二つの事件にとらわれてしまいました。

 それは隣りあった子会社と、私の部とで相次いで起った合計数十万円の盗難事件で、同じ部の人が事情聴取を受けたり、机の上の指紋をとられたりというような話を聞き、外部説と内部説があり、全員が疑いをかけられているようでもあり、そうでないようでもあるというあいまいな話にとらわれだし、潔白なのに万一自分も疑われたらこわいという思いで、しだいに身動きもできないような恐怖に襲われました。

 そして、こういう場合のつねで、信仰で心の平安を得ようと、より一生懸命にお経をあげたり、静座して「私は神の子だ、強い、恐れない」と潜在意識に唱える行をして、ますます恐怖にとりつかれていったのでした。このとき、森田療法の教えが身についていれば、こんな方法はむしろ恐怖心を助長する以外の何物でもないことがわかるのですが、悲しいかな、むしろ目的を見失なって、日常生活を一生懸命にすることよりも、プライドを守ることや、恐怖心を取り除くことに躍起になっており、疑われたらこわいという観念が頭にこびりついてしまっていました。不眠で悩み、恐怖心をなくしたい、不安を忘れようとしてランニングをしたりして、目的本位の行動とはまったくかけ離れた生活態度となっておりました。

第5回「気休め行為でどろ沼に」

 そして「万一疑われたらこわい」という気持ちを直属の上司の一人に話して、「そんなことはない。疑われてなんかいないから心配するな」と言われて一応安心したのですが、やはり完全欲の強さから万一を心配して、不安になり、別の数人に同じ心配を話して、やはり同様のことを言われて安心するという気休め行為を繰り返していました。そして別の上司からの「ノイローゼではないかと人事部が心配している」ということばでますますとらわれを深め、身動きがとれず、心の自由を失ったような状態になってしまいました。

 そして自己催眠療法の本を見つけ、それを頼りに神田にあった自己催眠クリニックで、会社の昼休みの時間などに催眠療法を受けたりしましたが、効きめはなく、焦りはつのり、とうとう横浜にあるW病院を訪ねました。そこで「やはり耐えるよりない。心配しなくても大丈夫」などのことばのほかに、気持ちが楽になるように薬を服むようにいわれ、服むと昼間から眠くて朦朧とし、夜はかえってますます眠れなくなり、明け方まで一睡もできず、新聞配達や牛乳屋の自動車の音を聞き、今夜も眠れなかったとがっくりして、重い足をひきずって会社にいく日が続きました。

 そのころは、「君がノイローゼと聞いたがどうしたのか、心配している」というような電話が、大阪支店に転勤となった前の課長からかかってきたりもして、私が悩んでいることが皆に知られているのではないかと思うと、関係念慮も働き、ますますとらわれを深めてゆきました。

 赤面で苦しい思いをしたり、挨拶が返されなかった場合には、悪意をもって見られているのではないかとみじめになったりの、へとへとの毎日で、とうとう今日でこの会社も見おさめだとみじめな気持ちで、会社から帰途についた日もありました。本当につらい毎日でした。

第6回「森田との再会」

 そのころにやっと本屋で、森田関係の図書に再会したのです。本は、水谷啓二先生の『森田療法入門』でした。このころには信仰によっても、この苦しみは解決できないのではないかという気持ちに傾いてきており、何としてでもこの苦悩から解放されるためには、藁にもすがりつきたいという、必死の気持ちのときでありました。

 読み進むうちに、森田療法関係施設として、水谷先生の啓心寮があげられていたので、そちらに電話をし、もう啓心寮は活動していないということなので、高良興生院を紹介されました。はじめて訪ねた興生院で、診察して下さった丸山晋先生に、それまでのつらい思いを訴え、先生から「それは本当につらかったでしょうね」と、しみじみしたことばをかけていただいたときには、思わずハラハラと涙が頬をつたいました。

 他のところでは「気を大きくもて」とか「心配しなくてよい」などのことばが返ってくるばかりで、納得できなかったのですが、初めて私のつらい気持ちや悩みを理解してもらえたことで、前途にほんの少しですが、光明を見出したように感じました。

 しかし、「あるがまま」に苦痛も受け容れ、じつと耐えつつ、目的本位の行動をとるという教えは、森田の教えの一部を知っている程度で、長年、間違った信仰のしかたをしていた当時の私には、即座にはなかなか実行し難いものでした。

 とらわれがひどいので、先生から入院の話が出ましたが、これの決断には本当に迷いました。病欠によって私の経歴に傷がつくという心配は、サラリーマンとしては当然であり、大阪の両親からも入院反対を説得されました。ちょうど三番目の子どもが生まれて二ヵ月足らずのときでもあり、家族を大阪に帰して入院するには、相当の覚悟が私にも家族にも必要でした。今考えれば自己中心的な面もあったかもしれませんが、毎日が死ぬほどの思いだった当時の私にとっては、興生院しかないとの気持ちが強く、通院のみで耐えていくには、毎日の生活が余りにもつらかったのです。

 このときの入院の決断が正しかったかどうかは断言することはできません。あるいは、現在のように発見会活動が普及していれば、入院の必要はなかったかもしれません。しかし、両親からの精神的自立が不十分だった当時の私が、両親の反対を押し切って最初に下した重要な決断であったという意味では、極めて意義のあったことでした。自分で下した決断に対しては、何としても耐えて、責任を負っていくという覚悟ができたと思います。

第7回「高良興生院で学んだこと(1)」

 興生院の生活は、一週間の臥褥期間を除けば、人生を教えるあたたかい雰囲気の、実践を尊ぶ学校といった方がふさわしい生活だったと思います。ここでの生活は、私の考えを根本から変えるものでした。森田的生活を実践するきわめて人間愛に溢れた環境のなかで、それまで嫌疑や誤解を恐れて避けてきた共同生活を二ヵ月半余り、実に楽しく送ることができました。そして素地のままをさらけ出した私が、家庭以外の場所に於ても、意外と明るく、快くうけいれられる愉快な面も持った人間であることを知り得たのでした。興生院の機関誌「あるがまま」に載せていただいた退院日記を読み返しながら、ここで会得した主な点をあげてみます。

 1.神経質症についての知的理解がかなり進んだこと。

 単に、本で読んだり、講話を聞いたりということによる理解以外に、同窓の人たちのさらけ出すとらわれの姿が、とらわれの対象は異なっても、そのパターンが自分と恐ろしいほど似ているのです。故に自分の症状に関して今までとってきた態度の間違いは、主観的にわからない面があっても、他人の間違いはよくわかるので、それから類推して、自分の態度の間違いをただすことができるのです。

 劣等感的差別観で人や物を見る癖、特に他人が自分をどう見てくれるかということは、今でも気になるのですが、私の場合、人が極端に悪意で、また誤解して私を見ているのではないかと思いこむことが多く、そういう思いこみが心の癖のようになっているので、すぐにしゅんとなったり、悲観したりしやすいですが、以前ですとそれにひっかかってしまって、もし人が悪意または誤解して見ているのではないかと思うと、気持ちが悪くてどうしようもできず、誤解されていないことを何とか確かめようといういろいろな努力をし、極端なときには、誤解されていないか、嫌疑されていないかを、直接本人に聞いて確かめて、やっと気持ちがすっきりするという「確認して安心すること」に目的をおいたような、いわゆる気休め行為をして解決していたのです。

第8回「高良興生院で学んだこと(2)」

 長い間、これが間違った解決法であることに気づかなかったのですが、森田を学び、同窓の人のやる「気休め行為」が、問題の解決どころか、逆に、事をこじらせ、とらわれを深めるだけであることがよくわかりますので、それから類推して、私が他人の胸のうちを聞いてすっきりしようとする行為が、単にそれだけが目的のようになれば「気休め行為」であり、大きな間違いであったことを知り、人の気持ちを確かめても限りがないものであることをさとり、気持ちが悪いままに我慢してつきあってゆかねばならない場合も多くあることを、はじめて学んだのでした。(態度の間違いは知的には理解できても、この気持ちの悪いまま耐えていくという態度が、かなり身につくに至ったのは、森田にくいついてはなれずにきたおかげです。)

 2.特に症状を作り出していた最も根本的な原因が、価値の置きどころの間違いにあったことに気づいたのは、特筆すべきでした。

 これは私の場合、与えられた使命、即ち日常の仕事も果たし、家族を守り育てること等に重点を置かねばならないのに、自分のプライドを守ることに熱中し、人の思惑を気にする方にウェイトがかかり過ぎ、本来の欲求、目的を見失なって行動が逃避的になっていたことが、強い症状に陥った原因であると気づいたのです。これについても、同窓の人の体験談で、価値の置きどころの間違いに気づいて方向を修正するために、「何が目的であるか」「何が価値があるか」を、はじめのうちは電気のスイッチを切りかえるように自分に言い聞かせながら行動したら、急に進歩したという話を聞き、他人の誤解や嫌疑が気になるときは、気になりながら、何が目的であるかを自問自答して、目的本位の生活をするように心がけました。今、つらい最中にある人、とらわれの強い人には参考になると思います。

第9回「高良興生院で学んだこと(3)」

 3.自己実現ということについても、従来自分は余りにも完全を望み過ぎていたと知り、焦らず自分に合った道を自分で選びたいと思うようになりました。

 4.自主性についても、これがいかに大切であるか知りました。

 それまで長い間、間違ったしかたでの信仰に基づき、自分の「我」をなくする努力をしていたことの誤りを知り、自己の本心を大切にして、自発的に物事に取り組みたいと考えるようになりました。

 5.間違った信仰のしかたにより、恐怖心をなくそうと努力して、前述の如く自分の潜在意識に「恐れない」「強いのだ」などのことばを言い聞かせていたのが、精神交互作用で、かえって恐れを助長していたことを知り、不安なままに信仰を棄てた(たしかにこの時は棄てたというにふさわしい異端者的な気分を味わいました)のでした。そしてビクビクハラハラのまま生活していくことの大切さを知ったのでした。

第10回「実生活の中での行きつもどりつ」

 会社への復帰はつらかったですが、先輩の体験記や、先に卒業した仲間の電話や体験談に励まされ、仲間と励ましあいながら「目的本位」を目ざしてがんばりました。そして、ショックを受けた事件が解決していたと上司から聞かされ、一度に青空が広がったような喜びを味わいました。しかし、これは、私が嫌疑恐怖をなお強くもっていて、とらわれが深いからこそ、何とかすっきりしたいという「気分本位」にマッチしたものであって、気分を楽にすることはできましたが、森田理論の体得に基づく「目的本位」の行動による、とらわれからの解放とは、ほど遠いものだったのです。

 だから後日、大阪への転勤が決まって帰阪する直前に、なお私に対して不機嫌だったり失礼な態度をとると感じる人がいるので、持前の完全欲の強さから、当時の事務課長代理(とらわれの最もひどいときに、不安を訴え、相談した人)に、事件が二つとも完全に解決したのかと念をおして安心しようとし、結局、ひとつは未解決なのだと教えられると、また、しゆんとなってしまったのでした。そして解決したら教えてほしいとお願いし、以後、解決したという話を聞かないため、長い間とらわれていました。

 なお、大阪へ転勤させてもらえたのは、私が入社の際大阪支店におらやなことでも多少苦痛でも、逃げないで、へたでもそれをやり通す人は好きだね」』という短いもので、森田シリーズ二十三巻「親と教師の森田教育」誌上で子どもの教育に関して書かれた教員、Oさんの、子どもとの対話の一部を引用させていただいたものです。

 当初は、三、四ヵ月すればまた、別のことばを貼ろうと考えていたのですが、現代っ子にとっても、なかなか大切なことばですし、愛着もできて、半年以上経過した今に至っています。発見誌や集談会などでのお話の中にも、ちょっと注意すると、子どもの人間観、人生観、自然観を健康に養い育ててゆく上で、役に立つことばがあるのに気づきます。皆さまも利用されてみてはいかがでしょうか。あわせて、観念的な教育が横行し、実践の少ない現代っ子を健康に育てる上に役に立つ森田生活道に基づく、一般の人向けの育児図書や、子ども向けの図書が出れば、多くの人々に福音をもたらすことになるであろうと思います。永い間の間違った修養主義、観念主義の人生を振り返って、痛切に感じ、願望するものです。

第15回「学習会で本来の欲望を知る」

 話をもとに戻しまして、この基準型学習会で教えていただいた総括の要領は、ほぼ現在の小冊子「森田理論学習の要点」に述べられている通りのものですが、簡潔でわかりやすく、自分を見つめ直すのに大変良かったと思います。

 私の場合は、「症状を誘発するに至った人間性に対する誤った認識」としては、人によく思われたいという気持ちが小さいときから強く、また、人に嫌疑・誤解されるのを恐れる余り、人前で緊張したり、ふるえたり、赤面したりすることを強く恐れ、致命的な欠陥と思っていたのです。この気になる性格を何とかしたいと思い、不安を取り除いて安心立命を得たいというのが、間違いのもとだったのです。

 「本来の欲望、願望」としては、人に良く思われたい、悪く思われたくないという心の底にある本心は、人に喜んでもらえる、世の中の役に立つ人間になることであることを、あらためて認識させていただきました。

 外聞を気にし過ぎる傾向は強いのですが、本来の欲望、願望は、人に知られても知られなくても、少しでも多く、自分の存在を喜んでもらえる世界を拡げること、即ち多くの人の役に立つ便利な存在になること、これによって自分にも喜びが湧くものであることを痛感し、多少、人から馬鹿にされても、場合によっては誤解されることがあっても、尻軽く動いて、お役に立つことの多い人間になろうとの覚悟が次第にできてきました。

 そして、この学習会を通じて、また集談会を通じて、悩んでおられるかたがたを励まし、少しでも援助できる自分を、うれしく思いました。また本音で話し会える場を通じて、お互いが、人間性に対する理解を深め、相互に成長してゆくことができ、いくらでも勉強して高めあえることができるのです。新しいかたや、つらい人を励ましてあげながら、その人ががんばっておられるのを思って、自分も辛さを我慢し、励まされもするのです。

 基準型学習会を終えてすぐの、昭和五十六年春には、S集談会の幹事に加えていただき、また次の基準型学習会の世話人もさせていただきました。そして、S集談会の幹事就任直後には代表幹事に選ばれ、皆さまへのお世話をする側の人間として、弱音が吐けない立場になるころには、自分にふりかかってくるものには、たとえ災難であろうとも、それが避けられないものである限り、受けてゆかざるを得ない覚悟、受けて立つ覚悟が、次第にできてきたように思います。

 ちょうどこのころ、神戸ポートアイランド博覧会・某グループ館の、短期間(最終の一ヵ月半の期間)の副館長の仕事が、当時総務課長代理だった私にまわってきました。支店長からこのお話をうかがったとき、以前なら、あれこれ考え躊躇するところを、「はい」と素直にひきうけさせていただき、グループ各社の寄り合い世帯で気をつかうことも多かったのですが、大変尻軽く働くことができ、解散式後、館のある人から、私の仕事ぶりが、最も爽やかだったと、ほめていただくことができました。

 その直後の会社の人事異動の際、今度もだめだろうと思っていた課長待遇の参事に昇進させていただくこともできたのでした。

第16回「おわりに」

 考えてみれば、自然界においては、あらゆる生物は、つねに死と直面しつつ生きているのです。親にかばってもらう期間は、ほんのわずかな期間なのです。あとは、どんな運命も受けいれ、耐えてゆくのです。人間も例外ではなかったのです。天災や人災、病気などによる生物学的な死のほかに、社会的な死、たとえば名誉の失墜、挫折などが、自分の努力と無関係に訪れることもあり、それをも人は受け容れて生きていくものだったのです。自分だけが、極端にそれらから逃がれようとするのは、無理であり、不自然だったのです。

 自然の摂理にさからった生き方は、どこかでその仕返しをうけるようです。それが自然による警鐘だったのです。それが、私の場合の神経質症だったのでした。

 今も嫌疑されることや誤解されることは、こわいことですが、そのために、なすべきことから逃げることはないと思います。また、とらわれにひっかかって、動けなくなってしまうことは、ないでしょう。

 思えば、とらわれを感じだしてから三十年余りの長い歳月を要して、たどりついた長い道程でありました。しかし、今振り返ってみて、この歳月がすべて役に立っていることがわかります。なぜなら、つらい思いをいっぱいしたということが無駄でなかったどころか、それがために、いろいろな苦痛を訴える人への思いやりを持たせていただくことができるのです。

 高校、大学から就職後も、神経質症に関する対処のしかたのわからない両親に、グチや取越苦労、持越苦労を訴え続けては、ずいぶん心配をかけましたし、高良興生院にお世話になる決意をするころには、特に妻や両親には、大変心配をかけたと思います。けれども、両親は信仰により、結果的には間違った方法であった面もありますが、いつも力づけてくれましたし、私が信仰を棄てることにも寛大であってくれました。妻も、第三子出生直後の不安定な時期に、私の入院を支持し励ましてくれました。妻が大丈夫と言ってくれたおかげで入院もできたのでした。また妻は、森田を身につける以前の、今から考えるとかなり気ままであった私も、少しは大人になった今の私も、そのままに認めてくれている、大変ありがたい存在なのです。

 それから、S集談会で、あたたかく、かつ、厳しく、力づけひっぱって下さいましたY理事、S理事、幹事、世話人をはじめとする皆さまがた、その他、森田関係の皆々さまに、心より感謝申し上げます。

 今も、生きていく上での不安はいろいろあります。毎日、今日はこの山を乗り越えて、今週は、この山を乗り越えて、というような気持ちで生きています。直面する山の一つ一つは、いやなものと感ずることは多いですが、あとで振り返るとたいしたことはないのです。それが、主観と客観の差なのだと思います。もし不安の山がない毎日であれば、きっと生きるはり合いの少ない人生だと思います。作家の豊田穣さんが、あるところに書いておられましたが、「挫折の谷が深ければ深いほど、次の山へ登るエネルギーは豊かに貯えられるはずだ」と。今日一日、この一日を大切にしつつ、次の山、次の山を、少しでも皆さまのお役に立てるように、そして一生を発見会の仲間とともに、せいいっぱい生きてゆきたいと思います。

 そして、森田先生、水谷先生、長谷川洋三先生、高良先生、阿部亨先生、丸山晋先生、岩井寛先生、馬杉保先生をはじめ、多くのお世話になったかたがたのご恩に報いることができるよう努めたいと思います。

第17回「森田のことばを頼りに」

 神経質の悩みからの立ち直りの過程で、神経質症の悩みと実生活の困難とに翻弄されながら、何とか「森田」にしがみついて離れず、やっとの思いで嵐を乗り切り、「森田」を指針とする生活が徐々にできつつあると自分でも評価できる時期がありました。

 自分の悩みは、複雑で特別に困難だとの意識はなかなか抜けず、執拗極まりない強迫観念の悩み。しかし、一方では疑いつつも素直に従うことの大切さを「森田」で学び、それが実感できるようにもなりつつありました。

 その頃の心の内側を、「森田」への思いとともに、綴ったことがありました。「私の好きな森田のことば」として生活の発見会の機関誌「生活の発見」一九八七年七月号に掲載されました。

 私の好きな森田のことば (「生活の発見」誌1987年7月号掲載)

『人並みに働くという外証が、迫々とごまかしではなく実際に当たるようになれば、自然に心の信念が成熟してくるのであります。親鸞が法然の教えに従って、「自分はただ良き人の仰せに従って、念仏申すまでの事である」といわれたように、ここの入院の諸君は、ただ森田の導くがままに、素直に実行していれば、ただそれだけでよいのであります。(森田全集第五巻 五六一頁)』

 とらわれの最中、悩み悩んで高良興生院の門をたたき、嫌疑恐怖の苦悩を打ちあけたとき、「それはつらかったでしょうね」と、あたたかく慰めてくださった丸山晋先生のことばに、思わず涙が頬を伝わったことを、今も鮮明に思い出します。「いつになったらこの苦しみから脱け出すことができるでしょうか」と書いたある日の日記に対して、「砕啄同時」ということばを引用しながら、ひなが卵からかえるときと同じように、外からも内からも機が熟してきた時点で、古い殻を破ることができること、それまでは頭で理解したことに従って行動してゆきなさいと教えられました。

 あれから十四年、当初は針の筵のように辛く感じられた会社生活で挫けそうになりながらも、日常生活を堅持してこられたのは、良き人の仰せに従う幸せに恵まれたからだと思います。疑い深い私、長年の信仰でも救われなかった私が、真の自己実現への方向を見出すことができましたのは、森田を貫いている愛と知の偉大さに、知らず知らず打たれたからだと思います。

 強迫観念の出口のないような苦悩と、現実の複雑さに、「私の悩みは特別だ。この先、一体どうなるのだろう」と、大きな不安に襲われることが、たびたびありました。しかし、森田の確かさが、灯台の灯のように、風雨の中でも私を導いてくれました。押し寄せてくる気分と、現実の苦しさに、沈み、流されそうになりながら、今だけは一生懸命に仕事をしようと必死でした。毎月、集談会に出席するようになってからは、毎月、方向をただし、外から形を整えることができるようになってきたと思います。グチを言い、疑いつつも、先輩のことばに従わざるを得なかった現実の苦しさ、苦しくも従わざるを得なかった森田の知と愛の偉大さが、いつか心の内側をも変えていてくれていました。

 あれほど、不安や苦悩を排斥していた私が、それらを辛いながらも現実の一部として受け入れることも、いつかできるようになっていました。たとえ不安があっても、森田と生活の発見会がある限り、私は大丈夫という期待が、年を追うごとに確信のようにもなってきました。

 しかし、欲望が強いだけ、深い悩みも伴なうことは、今後も覚悟しないといけないでしょう。これからも森田のことばを頼りに、自分らしい人生を、そしてできることなら少しでも人に喜んでもらえるような生き方を、送ってゆきたいものだと思います。

(次回から「学習と実践の継続」編をお届けします。)