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【体験談】耳鳴りノイローゼの功罪

はじめに

昭和五十二年五月、私は「生活の発見会」に入会した。生きていくうえで障害にな ると思っていた「耳鳴り」という、個人的悩みを解決するのがその目的であった。
そうして、発見会の活動のなかで教えていただいた森田理論を知ることによって、 自分のこれまでの生き方の間違いや、考え方の誤り、すなわち、病気と思って薬物治 療に走ったこと、また苦しさのあまり、仕事をやめたりしたことが誤りであったとわ かって、生活態度を正すことにより、当初の目的を達成することができた。私にとっ て、これほどうれしいことはない。
一時は、耳鳴りを治すのに、大学病院で、聴神経の一部を切断するという治療法ま でやってもらったにもかかわらず、目的を遂げることができなくて、絶望的な気持ち にまで陥っていたものを、集団で学習し、日常実践を積むという発見会の活動方針の なかだけで、それだけで治ったのだから、うれしい限りであった。さらに、当初の治 病という面だけでなく、これからの人生の指針となる力強い方向をかいま見ることと なったのである。

耳鳴りに悩んで

私は、学生時代の受験勉強中にふと始まった耳の異音が気にかかって、勉強をする のに不具合を感じた。これがしだいに強さを増すにつれて、勉強ができないと思いこ むようになってしまった。「これは耳の病気にちがいない、早く治さなければ大変な ことになる」と思い、耳鼻科医にかかった。現代医学で必ず治るものと思っていたの に、望みどおりにいかず、年月だけが過ぎて、よくならなかった。反対に、心配と不 安ばかりつのり、「困った、困った」と無為に過ごす生活になった。
当時の望みは、不快な耳鳴りを治して能率よく勉強したい。そしておおいに学び、 将来の活躍に役立てたいものということだった。これさえなければ、どんな難しい勉 強でもこなせ得るが、治らないようでは、現在の勉強にさしさわるだけでなく、将来 とも不幸になってしまうと考えていた。「医者も治せないやっかいな病気になってし まって、これ以上損なことはない。早く治したいものだ」と、その後、長い間、この 気持ちを持ったまま生きていくはめとなった。学業を終え、社会に出て仕事をするよ うになっても同様で「勉強ができない」が「仕事ができない」に、対象こそ変われ、 耳鳴りの不具合そのものは一向に好転することはなかった。

十五年目に森田に出会う

発見会を知ったときには、発病よりすでに十五年が過ぎていた。種々の治療法も効 果がなく、ほとほと困りはてて、すっかり自信を失ってしまっていた。それでも内心 では、何としても治りたかったのである。
仕事からの帰り途に、ふと立寄った書店で長谷川会長の著書『森田式精神健康法』 をみつけた。この一冊との出会いは、私にとって生涯の幸運であったと思う。この本 の案内で、さっそく入会させていただいた。そしてS集談会の存在を知り、出席させ ていただいたのが、発見会の諸氏にお世話になった最初の体験となり、森田理論の学 習に入った。

実生活に重点をおく

そして、発見会とのかかわりを深めたのであるが、ことに基準型学習会での三カ月 の体験は、森田の理解にずいぶんと役にたった。
理論の基礎学習、先輩の体験談、それに日記による生活指導。私はそれに従って、 家では掃除、窓ふき、靴磨き、子供の相手など雑事に手を出した。仕事においても逃 げないで、目的本位に取組んだ。苦痛を感じ、逃げたいと思いながら、こんなことで いいのだろうかと思いながら、目前の仕事を片付けるのに苦心していった。そのうち にふと、気持ちと動作は別々に存在しているんだなと思い当たるようになり、気分本 位と物事本位の区別が可能のような気がしだした。
その間、関係図書をくり返しくり返し熟読し、理解につとめ、先生の講話、先輩の 体験を聞いては参考にした。
この間、長い日時を要したが、苦しいとか、いやといった気持ちを持ちながらも、 実生活に重点をおいて行動ができるようになった。とはいっても、その過程は決して 平坦なわけでなく、心痛のあまり、やっぱり森田もダメかと放り出しそうになったこ とも度々であった。そのようなときに、同じ神経質者のいることを知ったことが、ず いぶんと助けになり、自分一人でない、発見会のすべてのかたがたが、同じ悩みを持 ちながら活動しているのだと、私自身の励みにしたのであった。

森田で習い覚えたこと

私は、発見会の活動をとおして、森田の教えを学習したのであるが、私の症状に照 らしながらまとめてみよう。
第一に、耳鳴りのみならず、音や騒音が不快なのは、万人共通の感情であるからしか たがない。私の耳鳴りの悩みは、その不快な感じを排斥しようとしたところにあった 。それは、耳鳴りがしている事実を否定する心のやりくりにすぎず、不可能を可能に しようとした誤りに他ならなかった。だからこれを明らかに認めることで、あらゆる 誤想から離れることができた。
第二に耳鳴りから注意を転退せしめないこと。つねに耳鳴りを気にしながら生活す るのがよいこと。私は耳鳴りの存在がいやでしかたがなかった。そのいやな存在から 逃げだしたくてしかたがないのだが、どうしようもなかった。気になる対象から離れ たいと思うのは、対象に関心があればこそであり、無意識のうちに注意を向けること となるのであろう。その結果、耳鳴りから離れようと思えば思うほど、注意は耳鳴り に集中することとなり、注意が集中されれば、耳鳴りの不快感はますます鋭くなる。 この注意と不快感覚は、交互に作用しあって悪循環を形成している。私の耳鳴り症状 固着の本態を教えられて、第二の生活態度を保持することが、悪循環を断つこととな るものであるとわかった。
第三番として、耳の主要な働きは音声を判別すること。私の耳は何度聴力検査を受 けても正常であった。それにもかかわらず、安心することができなかったのは、わが ままだったのだろう。集談会などでも、耳鳴りのある人は多いのに、あまり問題にな っていないという。他人のことばが聞こえれば、正常と考えているからであろう。そ して私もやっと安心し得た。
この三つを認識、会得することで、耳鳴り対策は万全と思う。その後、本を読むと きも、文を書くにも、支障をきたすことはない。今も音はあるようだが、全然気がつ かないから、ないのと同様となった。
このように、症状の完治と同時に、この方法は、日常生活や仕事上の困難事に遭遇 した際、即、応用できるものであることが理解できた。まさに、思いがけない儲けで あった。
その他、自分の性格について、非常に欲深くて満足できにくいこと。問題にあたっ ては一人で抱えこみ、白黒をはっきりさせたい傾向があること。現在はもとより将来 の心配に傾きやすいこと。これらの特微をよく見きわめて、このような自分が、どう 生きていくのがよいか、その方向を教えてもらうこととなった。そして、従来の混迷 の生活ではなく、自他ともに生かす建設的生活の発見と表現するのにぴったりの人生 の存在に、気づかせてもらうことになった。


不覚の時代をふりかえり

前述のように、私は森田療法という卓越した現代科学の理論によって、現実に引き 戻されたのである。朝になって、母親に叩き起こされた子供が目をこすりながら起き あがる姿のようなものだろう。
とにかく、私はこの現実から出発しなければならなかったのであるが、もう一度、 迷路の状況を反省しておきたいと思う。
私の実生活上の最大の迷いは、仕事の面に現われた。「仕事をするにあたってはつ ねに、生きがいを感じなければならない」という思いにとらわれて、度々大切な判断 を誤ってしまった。
初めて社会に出たのは、中卒の十五歳のときであった。H県のI市にある造船所の 工員になった。まだ適応能力の点で欠けるところが多かったのだろうが、仕事にいく のがいやでたまらなかった。職場での大人たちとの話題にも入っていけず、仕事だけ に興味を見出すことも無理であった。夜間は定時制高校に通っていたが、昼間の者に 劣等感を持って、自分の存在がずいぶんとつまらないもののように思えるのだった。 そして、漠然とした将来への不安に気づくようになった。
もちろん当時はノイローゼでなかったと思うが、多分に神経質の性格のゆえと思う 。そのような状況の中で、私は勇躍、進学を決心したのであった。現状打開のために 、がんばってみようと決意した。勉強して、将来は生きがいの持てる職業に就きたい と考えた。今の工員の仕事では給料も多くは無理だし、仕事に生きがいなんて望む べくもない。事実、会社には仕事を休んでは競馬や競輪で借金し、無為な生活を送る 人も多くいた。私は絶対にそんなことはいやだと思い、脱出を夢みたのである。思春 期から青春期に至る四年間ほどのことであった。
働きつつ学ぶ高校卒業の直前になって、耳鳴りにつかまった。その後は前述のよう に、心痛のなかで、卒業一年後、やっとのことで、大学の夜間部に合格することがで きた。

仕事よりも治病に

O外大のドイツ語科に入ったが、なぜこれを選んだか今もってよく覚えていない。 ただ国立なので学費が安く、働きながらいくのに好都合な点が一番であったと思う。 それと神経質(当時は知らなかったが)を文学的方向で柔らげたいと思う向きもあっ た。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』という小説を読んで、相当傾注していたのを覚 えている。
仕事の方は、公務員試験に受かったのを機会に、役所勤めを始め、働きつつ学ぶに は最高の条件を整えることができた。しかし、仕事や勉強より治病に走ってしまった のである。
このころの毎日は大変であった。耳鳴りのうえに不眠症、疲労倦怠、眼痛と重なり 、病院でくれるアリナミンとコントール(安定剤)をのんでますます悪化を進めたの であった。
仕事の方に話を戻すと、年金保険の事務をしていたが、当然、身を入れてやる気持 ちもなく、時間が終わるのを待って、逃げるように飛び出すという態度であった。こ れが長期間のうちに悪癖になっていたのを、当時は知る由もなかった。これが、仕事 に生きがいを要求する者のとる態度であろうか。
私の欲求水準は、観念的で短絡的にふくれあがって、自分はもっと高等な仕事につ く人種で、今は腰掛けでやっているにすぎないなどと、大変傲慢なことを思っていた のであった。二十歳から二十三歳ごろのことである。そして、夜学を卒業した年に、 男女同じ給料なのは面白くないなどと、屁理屈をつけ、辞めたのである。
こんなことであったから、その後も、転職するはめとなった。仕事に生きがいを感 じなければならないという思いは、薄らいだものの、これでよいのか、こんなはずが なかったと、自分の道を外に探しはじめるのであった。
若いときは就職先も売手市場で不自由はないものの、中年以後もこのようであった らと思うと、身の毛もよだつ感がする。それにも増して、発展向上の面からみても、 やり直しばかりでは伸びる間がないではないか。ようやく基礎ができても、自ら切っ てしまっていた。神経質との自覚がなかったといえばそれまでかもしれない。が、い かにも不覚であった。

私の「生活の発見」

私は損害保険の代理店を自営業としている。遅まきながら、妻と二人の娘を養うた めに、日夜、忙しく働いている。以前考えた「仕事の生きがい」ということより、そ の日の用件に苦心する毎日。これもすべて、発見会の皆さまのおかげであると思い、 感謝にたえない。神経質者としての生きるべき道を知り始めた今、過去の二の舞いを 演じないだけでなく、それを生かしていけそうな気がしている。
それにつけても、神経質を考えるとき、ありがたい性格だと思う。頭のよくない私 が、中卒で、働きつつ高校、大学とまがりなりにも終了したこと。貧しい境遇のおか げで、いかに症状が苦痛であっても、自分の口を糊する分だけは獲得したことは、よ い実践であったと思う。そして、何よりも発見会に入会できたことも、神経質のおか げであろう。

私の事実を認めて

そこで教えていただいた、「いま行わなければならない行動はただひとつ、そして 今できる行動もただひとつである。この行動によって、主要な問題を解決すれば、他 の副次的問題は自動的に解決されるか、または、容易に対処できるように変わる(青 木薫久先生のことば)」という行動原則に従って、私は仕事をしたのであった。その ことによって、家庭の安定というものが実現し得た。そうしたら、神経症や生きがい の悩みは消滅したのであった。
そして私は、自分の本心は、自身を含めた家族の幸福を願っていたのだと気がつい たのである。実に平凡な、小さな自我に、今さらながら思い至ったのである。これこ そ私の実際の姿であり、事実である。ここから出発するしかしかたがない。こんな自 分に気づいた。こんな私にできることなら何でもよい、身近な、小さいことから手を 出していこう。このごろになって、ふと、生活の充実を感じたりする。
早いもので、発見会入会以来三年になる。そして、思いもよらなかったことだが、 S地区幹事会の代表幹事なる仕事を仰せつかっている。Y理事の言動を見習いつつ、 果たしてこれでいいものかと思いながら、やっている次第である。Y理事の努力のお かげで、幸い新しい世話役のかたがどんどん加わってくれており、うれしい限りであ る。この輪をますます拡げるなかで、森田理論の学習を深め、今後とも、私の修養に 努めたいと考えている。


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