
少年時代から、私は知識欲がきわめて強かった。小学校のときに、中国の古典小説『紅楼夢『水滸伝』『三国演義』『三字経』あるいは『簡明な中国通史』や、高等学校に相当するような教科書『世界の地理』『世界の歴史』などの本を読み、また世界の名作『鋼鉄はいかに鍛えられたか』『赤と黒』『復活』などのような書物を広く読んでいた。
はじめは、私も他の青年たちと同じように、いろいろな将来の夢があったが、自分の国語の成績が割合に優秀だったし、書いた作文がときどき「参考」として、先生から同級生に紹介されたりしていたので、つねに思い上がった気持ちが溢れていた。そういうことで、私は心ひそかに「将来は作家になりたい」という志を立てていた。
1968年、私が16歳のとき、「山と田舎へ行け」という大規模な運動が全国で繰り広げられていたので、私の抱いていた豊富多彩な夢は打ち砕かれてしまった。理想の高嶺から現実の谷に突き落とされてしまったことで、不眠、焦慮というような症状が初めて表れてきた。
特に農村で、他の人はつてを頼って都市へ戻り、定住する人の数がだんだん減っていくのを見ると、精神的に激しい矛盾を感じるようになった。いろいろな症状に襲われたが、そのときには記憶力にはまだ影響がなかった。かえって興奮していたような状態だった。というのも、当時は書物が非常に乏しく、読み物は「毛沢東選集」しかない状態だった。この「毛沢東選集」が聖書のように思われていた時代に、私は毛沢東の著書をペラペラと暗誦できたので、「毛沢東思想を勉強した積極分子」という栄誉を受けた。
3年後、私は軍隊に入り、きびしい訓練で強い体力が要求されるようになると、心身に大きな影響を受け、個性の弱さも露わになってきた。
私は何をしてもナンバーワンになりたくて、向上心が特別に強く、リーダーに褒められることをひそかに望んでいる。けれど見掛けは慎重で謙虚な態度をとり、実は本心では他人のお世辞のことばが聞きたいのである。どんなことも、他人を越えられないとすぐ失望落胆し、他の人が仕事でいい成績をとれば、心のバランスが崩れるのである。
性格も内向的になり、現実と内心との葛藤が日増しにはげしくなってきた。さまざまな「神経衰弱」の症状が出てきた。不眠、心悸亢進、疲労感、焦慮、煩悶など、数え切れない。胃腸にも問題が出てきて、人間関係もだんだん緊張感のあるものになっていった。毎日毎日、自責感が起こって後悔し、病気に対する恐怖のなかで生活していた。
これが20歳頃のことで、このような状態が42歳まで続いた。ちょうど20年以上になる。
20年あまり、私はずっと地獄のなかで暮らしていたといっていい。この心の苦しさは、どんなことばでも言い表せない。世界中で私ほど不幸な人間はいないと思っていた。それなのに、他人には理解されないのである。一方では自分を賢い人間だと思い、もう一方では深く劣等感を感じていた。
この20年間に、「神経衰弱」で4回入院した。「胃腸病」で2回、肝臓病の疑いで2回入院した。毎日の生活が恐怖だった。いろいろな違和感で朝から晩までこわくてたまらないのだった。死ぬような感じにも時々とらわれたことがある。
今にしてやっとわかったことだが、これは病気恐怖症の表れに過ぎなかったのだ。
病気を克服するために、20年の間に「太極拳」「気合術」「鍼療法」「理学療法」などを試した。紅茶菌も飲み、いろいろな漢方薬と鎮静剤も飲んだ。なぜ病気にかかったか、その理論と治療法を見つけたくて「精神病学」およびフロイトの「精神分析法」、パブロフの「心理学」という本を自分で研究したりした。わかりにくいことばのなかから救われる方法を探ろうとしたが、結果は言うまでもなく無駄だった。
病気を治すために、気合術が一時流行したとき、私は気合い術の名士という人を探し、彼のテープを聞き、彼を師としたことがある。客観的に言えば、気合い術をしていた時期は短期間ではあるが、あきらかに効果があったようである。しかし、時間が経つにつれ、病状はまたぶりかえした。当時の効果は、暗示の作用によるものだったかもしれない。問題が根本的に解決してはいなかったのだ。
1994年10月に、私は、『心理と健康』という雑誌で「森田療法で神経症が治る」という文章をはじめて読んだ。(同時にはじめて「神経衰弱」という名前が正しくないのがわかり、「神経症」と呼ぶべきということがわかった)。
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そのなかでも特に温泉潤氏の書いた「心理の苦境から抜け出し、生命の光に出会う」というタイトルの文章は、正確なことばで、日本のメンタルヘルス岡本記念財団の理事長、岡本常男先生が、森田療法によって何年かの持病から回復したという事実を紹介していた。これは、私の興味を強くそそった。
私は、森田療法についての本を探しながら、森田療法を自分の神経症に試して治したかった。ところが、はじめのうちは、まだ森田療法の本質を理解していなかったので、まがりくねった道をたどってしまったこともある。
自分で森田療法の標準治療4期を、順番にやっていきさえすればいいと思って、絶対臥褥から行おうとしたが、こういうことは、専門医がいない場合、仕事を続けながらでは実行できないということもあり、結果はよくなかった。
幸い、そのとき、森田療法についての書物が手に入り、森田正馬教授、高良武久教授、岡本常男先生がたの書いた本を真面目に繰り返して読んでいるうちに、神経衰弱の本質、「あるがまま」の基本的な方法も理解でき、だんだんわかってくるようになった。
私の本当の実践は、1995年1月から始まった。1ヵ月だけであきらかに効果が表れた。症状は大体消失し、実際の仕事でも思うように自分の力を発揮できるようになった。以前は長期にわたっての仕事がほとんどできなかったので、天地の相違があると思う。いまはまだ全治というほどとも言えないが、もう正常な人間のように仕事、勉強もできるようになった。そして人生の道で避けられないいろいろな矛盾に対しては、正しく対応できる。今後、森田療法の要求に応じて、「あるがまま」に絶えず実践していけば、必ず自分自身になお役立つに違いないと思っている。
以上のように治療の過程を簡単に述べてしまったが、実は実践の道をたどるのは順調だったとは言えない。「苦痛を我慢しながら、なすべきことをなす」という教えは、口で言うのは容易だが実際に行うのは容易なことではない。
一般の人は、医者でも精神科医さえも、「根気」ということばでつねに病気と争おうとセって患者たちを励ますが、実行する場合はそのままやれば効果があるとは限らない。私も神経衰弱と格闘したとき、非常に複雑な心理現象がでたことがある。
しかし、簡単に言えば、実際の行動をすることが、なすべきをなすことである。あなたの当面やるべきことをやろう。絶えず行っていれば、自信が出てくる。進んでやるべきことを探してしようとすれば、成功したあと、楽な体験が自ずからやってくる。けれども、もし森田療法を深く理解しよう、森田理論を追求しようとするだけでとどまって、行動しなければ、収穫にはならないと思う。
今、自分の歩んできた道を振り返ってみると、幾重にも曲折していたと思う。ある原因で何回か症状がぶりかえしたことがある。森田療法を疑ったこともある。でも最後に成功を勝ち得た。やっと成功の喜びを味わうようになった。症状はますます軽くなって、消失までになった。
心身の束縛を離脱してから、私はときどきこんなふうに思う。20年あまりにわたって苦痛を経験したこと、自分としてはこれは不公平なことであり、不幸なことだと思う。にもかかわらず、私は幸運である。かりに森田療法がなかったとしたら、私はきっと苦しいままで一生を過ごしていくに違いない。これはどんなにかおそろしいことだろう。
病気が治ってから、私は進んで森田療法を友人たちに紹介してあげた。知り合いのなかにも神経衰弱者がいるからである。今でも苦痛の淵に落ち込んでいるこのような人たちを、助けようという願いが心に湧いてくる。
彼らには本を買って送ってあげたり、自費で北京の第3回国際日本森田療法学会に参加した折り、学会後、家に帰ってから、会議の様子を彼等に紹介したりした。身近にいる悩んでいる人が二人、苦しみから抜け出した。彼らは私と同じように森田療法に心から感謝している。もっと多くの人たちが苦痛から抜け出せるように、皆、楽しく自分の力を尽くしているところである。
最近、私の住んでいる省の回復病院院長は、私の治療の過程の紹介を聞いて、自ら森田療法についての本を読み、地元で森田療法を広げるという準備をしているところである。これは何よりもうれしいことである。もっと多くの患者たちが、長期にわたった苦痛から切り抜けられることになるだろう。
最後に、私は心から森田療法を中国にご紹介くださった人々、熱心に森田療法を展開してくださった人々に感謝している。とくに日本の「メンタルヘルス岡本記念財団」の岡本常男先生に感激の気持ちを表したいと思う。
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