
- 生の欲望が大きいほど、ますます死の恐怖も大きく、生の欲望がますます少なくなるに従って死の恐怖もいよいよ少なくなってくる。死の恐怖のはなはだしいのは生の欲望の盛んなことを示すもので、死の恐怖がないということは、生の欲望の失われたことを証明するものである。
この生の欲望の種々の程度において、そこに種々の生死の問題が起きるのである。もし生死の無限度の境涯になりきつたときには、いわゆる数学のプラス、マイナス、インフィニティであって、そこに生死の問題はない。
たとえば忿怒なり愛情なりが、激しいその極に達したときには、全く死というものを忘れ、驚愕、畏怖もその極度のときには、腰を抜かし、動くこともできないで、全く生を求める心を失ってしまう。忿怒、愛情は自己の生命発揮の爆発であり、驚愕、畏怖は生命破滅のいきづまりであるからである。
- こういうときに、いつも忘れてならないことは主観的と客観的との観測の相違である。この場合には、主観的に自分の欲望とか自覚の程度を測るのであって、その忿怒 なり驚愕なりになりきつたときには、もはや生死に対する自覚はない。
すなわち光の速度に乗ってしまえば、すべての大きさは消滅し、汽車に乗っていればその速度がわからないのと同様である。
- われわれの日常生活について、美味いものが食いたい、金が欲しい、権勢が得たい。この欲望を充たすためには、必ずそこに、それ相当の努力と苦痛とが相対している。
そしてわれわれは自分の過去の経験を思い出して、将来の成り行きを推測し、これに社会人事の事実を参考にして、人生における欲望と苦痛との関係を商量思考し、さらにこれを引きのばして生死の問題に及ぼし、はじめてここにわれわれの人生観が起こり、哲学が生まれるのである。
で、その欲望というものを目標として考えるときに、楽天説となり、苦痛を目標とするときに厭世観となる。これはちょつと考えると、人生に対する客観的な観察のように思われるけれども、実はその主なる事情は主観的であり、または主観、客観の混合であり、あるいは欲望と苦痛との関係の計算の誤謬かも知れない。
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その楽天というのも厭世というのも、ともに主観的な気分を現わした言葉である。ジェームズが「積極的、消極的種々の哲学の現われるのは、皆各々その哲学者の気質から創り出されたものである」といったのもこのことである。
この楽天と厭世との間には、長生きはしたいけれども生は骨が折れるし、えらい人にはなりたいけれども勉強は苦しいというふうに、生と死、欲望と苦痛との間に、種々雑多の思想や人生観が出来る。そして客観的に論理的に批判するときに、それが思想となるけれども、人生の現実にぶっかって欲望と苦痛との間に考慮の葛藤を起こし、身につまされ戸惑いをするときに、これが主観的に仏教のいわゆる妄想とか煩悩、煩悶となるのである。
この客観的と主観的との観察の結果は、つねにはなはだしく齟齬、矛盾することが多いもので、私はこれを思想の矛盾と名づけている。それは当然相違があるはずである。
すなわちまず自分の観察の立場を確定しないからである。相対性原理では、まずその観測者の立場を確定しなければ、すべての現象の観測は、不可解になってしまうのである。私はつねに「多くの哲学は思想の遊戯である」というふうに悪口をいっているが、主観と客観とをごったにしたような机上論的な理論は、われわれが日常の現実生活に対して何の用にも立たない。しかも思想の矛盾により、実際とはずれるために、はなはだ有害である。
(「神経衰弱と強迫観念の根治法」森田正馬・白揚社)
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