i.対人恐怖(赤面恐怖、正視恐怖、自己表情恐怖、多衆恐怖等)
神経質症状のうち、疾病恐怖と対人恐怖は最も多いものでまず横綱格である。
一体対人恐怖を少しも持たぬ人は極めて稀なもので、そんな人はむしろ少し変った人であるといってもいい位のものである。普通人は多かれ少かれある程度の対人恐怖を起すのは当然のこととして別に不思議とも思わずに暮して行くのである。
古人が人は社会的動物であると云ったように、人間は孤立して存在し得るものではない。孤島のロビンソン・クルーソーも人間がいなければ犬や鸚鵡(オーム)を友とするが、やはり人間が恋しくてしかたがない。精神分裂患者の多くは、はなはだしく人間が嫌いで、出来るだけ人を避け、人との交渉をなくして自分独りの得体の知れない生活をするのであるが、これは特別なもので、すでに人間的感情を喪失したものである。
神経質の対人恐怖の人々は、やはり人を避けたがる。しかし決して人と離れたままで満足しているのではなく、人と親しみたい、人に好かれたい、尊敬されたいという欲望を充分に持っているのであるが、対人恐怖という強迫観念のためにそれが出来ないことを悩むのである。分裂病の人には病気のために始めから人と交りたいという欲望がないのであるから、厭人症があっても、その症状のあることを苦にしないので、神経質の強迫観念とは全く異なるものである。
さて神経質の対人恐怖症にもいろいろ個人的の趣きがあって一様に述べ難いが、最も多いものを述べて見よう。
人前で赤くなること、顔のほてる感じが、人に注目されるようで非常に恥ずかしく、そのために人前に出ることを嫌がるものである。こんな人は人から血色が好いと云われても、自分の赤面を指摘されたようで、はなはだしい不快を感じたりする。そのために種々の小細工もやったりするもので、非常に暑いという恰好をして、顔の赤いのも暑さのためだと人に思わせるようにしたり、何度も冷水で顔を洗ったり、酒でごまかしたりする。まるで赤面地獄に堕ちたょうに悩むものである。ところが中には格別顔は赤くならないで、ただ自分でほてる感じがするので、赤くなるものときめこんでいる人もある。
人と面と向っているとき、視線のやり場に困って非常に狼狽する。その不快を嫌がって人前に出るのを避けるのである。これではならぬと、相手を見つめると苦痛はますますはげしくなってくる。
仮にそういう名称をつけたのであるが、人によって様々である。自分の顔が醜いときめこんで、人前に出られない、人に失礼になるというもの、人に対するとき顔がこわばるとか、笑う時も泣くようになるとか、唇の曲り方が変であるとか、ことに多いのは眼に関するもので、自分の眼つきが鋭くて人に不快をあたえる。白眼が多過ぎる。肩がどうであるとか、自分の顔に種々の難癖をつけて、人前に出られないと欺くのである。そのために、眼鏡を種々取り代えてはかけて見たり、眼科医の所に行って手術を受けようとしたりするものもある。また自分の眼に力がないということで、人から軽蔑されると思い込む人もある。
また顔だけに限らず、物事をするのに自分の手つきが変である。歩く時の恰好が変であるとか、あるいは自分の体臭が人に不快を与えるとかを気にするというのもある。腋臭があると思い込み、また事実多少あるのを非常に重大視して、毎月シャツを洗ったりしなければ人前に出ようとしないものなどもある。
対人恐怖にも種々あって、個人に対しては格別のことはなくても、多人数の前に出るのが極端に嫌なもの、あるいは個人的対談に際して、話すべき話題のないことが苦になるもの、人に対するとき堅くなり、ぎこちなくなるのを嫌がるもの、ふるえるのを恐怖するもの種々様々である。
先にも述べたように我々の本心は、人に好かれたい、人に親しみたい、人に重んぜられたいというところにある。その方が生存上都合がいいからである。そういう心が一方にあると、必ず一方には人に不快をあたえることはあるまいか、嫌われはすまいか、軽蔑されはすまいか、という不安があるのは当然である。ことに長上の人々や多人数の前、男性に対する時など、自分がよく思われたい欲望が強いから、一方には悪く思われはしないかという不安も一層強いわけで、それが人情の自然である。その自然にまかして、恥ずかしいままに、恐ろしいままに、嫌なままにそういうものと心得て、人に好かれたい本心に乗って人に接して行くのが普通人であって普通の人は対人恐怖心をなくしようともしないから、対人恐怖が格別問題にならないのである。しかるに神経質の人は、その人前における苦痛、羞恥の感じなどを嫌がり、かかる感じをなくそうとして、不可能の闘いをするので、強迫観念化して、対人的苦痛恐怖が二重にも三重にもなっていくのである。
花を見れば美しいもの、毛虫は気味悪いものと、ありのままに受け入れていく時強迫観念は起りようがない。人の前に出て心の動揺があるからこそ、人と調和していけるので、あたかも遊動円木(ゆうどうえんぼく)に乗って、円木と身体が共に揺れて調和が保たれるようなものである。
対人恐怖の人は苦しいままに、恐しいままに、恥ずかしいままに、仕方なく人に接していかなければならぬ。苦しみを避け、人から逃げてばかりいてはいつまでもらちが明かぬのである。
人情の必然的心理から逃げようとしても、それを否定しても、成功しないばかりでなく、ますます葛藤が増すばかりである。正視恐怖の場合などを考えると、いかに神経質的とらわれから、人情の自然に逆らっているかがわかるのである。彼らは、人と視線を合わしたとき、誰でもパッと眼をそらすのが自然であるという簡単な事実にさえ想いいたらない。我々は人と話をしているとき、視線は一点に固着させていない。あるいは相手の全体、もしくは顔を漠然と見ていることもあり、あるいは胸のあたりに移ったり、方々にさ迷うのが普通のことである。相手が自分の眼を見ていないときは、その眼を見入ることも出来るが、向うの視線と自分のが蓬うと、バツが悪くなって、瞬間に眼を外らすのである。もし視線を合わせたまま対しているならば、それは憤怒の場合であるとか、あるいは異常の精神状態においてである。酔漢の目がすわるという時、または、狂人の眼は相手の眼を凝視するのでまことに気味の悪いものである。普通人は誰でも視線を合わせている時のバツの悪さに耐えられない。しかるに神経質の人は、眼を外らすのは負けである、意気地がないからであると思って、強いて見ようとすると、自然の心理に従って妙な嫌な気持ちになる。凝視しょうとすればする程苦しくなり、ついに人の顔を仰ぎ見ることも出来なくなる。それで色眼鏡をかけたりするものである。人情の自然に反抗するところに葛藤が起るのである。
対人恐怖の人は他人と自分を対立的に見ればいつも人と自分を比較して、自分が人より弱い意気地なしと思い、人の前に出ても引目を感じないように心の平静を失わないように、人に負けないようにと念じて、自然の人情である対人的感情の動きをも否定しようとする。そこに強迫観念のなり立つからくりがあるのであるから、まず何よりも人間の自然の心理に従順になることが大切である。人に勝とう勝とうとせず、下手に出て、人に好かれるように心がけ、話し上手になろうとするより、聞き上手になろうとするがいい。人に対してはびくびくはらはらのまま、なるたけ笑顔で接するがいい。彼らは人に負けまい、動揺してはいけないと、不自然に頑張るので、かえって傲慢にも見え、そうなると、人からも嫌がれる傾きがある。人が先に礼をしないと自分も頭を下げないという調子になりやすい。真の親しさがないのに笑顔で接するなど、おべっかが出来るものかと、自分本位の狭い量見でますます世の中を狭くしているのである。私は対人恐怖では青年時代長い間苦しんだことがあるので、かかる人々に対しては特に同情のあまり辛辣なこともいうのであるが、私の言葉を率直に受け入れてゆけば、癒るに従ってその真意がわかる筈である。とかく、神経質の人には理屈が多い。中にも、対人恐怖の人は格別理屈に流れる傾きがある。迷いの中の理屈は是非共に非なりで、迷っている間の理屈は気分本位の独断に陥りやすいものであるということを戒心しなければならぬ。
なお、対人恐怖のひどい人は、人が話をしていても自分のことを云っているように思ったり、人が笑っても自分を冷笑しているのではないかと悩むという調子になる。こういうのを関係念慮といって、自分の気持で、自分に関係のないことを関係があるように感ずるものである。そしてその誤りが自覚されにくいこともあるが、癒るに従って自分の思い過しであることがわかるものである。