B.個々の症状とその対策

f.雑念恐怖、注意散乱

雑念恐怖の心理は、雑音恐怖となんら異なるところはない。
一体世の中に雑念の湧かない人があろうか。我々の身体器官は常に働こう働こうとしているものである。それゆえに眼が開いておれば、何かを見ないわけにはいかぬ。同様に醒めておれば脳が常に何かを感じ、何かを考えないわけにはいかぬのである。文字通りの無念無想というものは深い麻酔に陥っている時、昏酔時熟睡時以外にはないのである。こういうと雑念恐怖の人は必要なだけを考えるのならいいが、不必要な何もならぬことに考えがうつるのは困るという。はなはだ勝手な云い分であるが、迷っているとその得手勝手の程もわからぬ。今私が時間を調べようとして机上の置時計を見るとすると時計の文字盤の外にその装飾や、傍のインキ壷、マッチ等が眼に入る。時を見るのにこれらのものは不必要なものであるが、矢張り見ないわけにはゆかぬ。強いて見まいとすれば、時計の針まで見ないようにするより他ない。我々はかかる場合、時計と共に他のものが見えるのは当然のこととして少しも怪しむことなく、素直に受け入れているから、それが少しも邪魔にならず、見えるということすら意識しない位である。同様に我々がある仕事をし、ある問題を考えようとするとき、それに関連した必要のことだけが頭に浮ぶということはほとんどないのである。連想は様々の方面に起って、当面の必要事項と一見関係のなさそうなことまで浮び上ってくる。それが普通のことで、常態である。様々の連想の中から、当面の問題に役立つものを採択し、総合して、そこに有用な思考が成り立つのであるが、大抵の場合採択しているという意識もなく、目的にかなうように撰択は行われている。机上のペンを取ろうとする時、他のインキやノートが見えても一向邪魔にならずに、手は自らペンの方に向いて行くようなものである。

しかるに雑念恐怖の人は、当面の必要以外のことが頭に浮んでくると、これを雑念と名ずけて、それを抑えようとし、雑念と格闘しているのである。当然あるべき心理を否定し排斥しようとする努力は、不可能を可能にしようとするものであるから、葛藤はますますはげしくなり、肝心の仕事の方は留守になってしまうという結果になる。
雑念恐怖の人は「自分はこの病気になるまでは雑念はなかった」というけれども、それは認識不足のはなはだしいもので、以前にも決して雑念がなかったのではない。ただ前にはそれを当然のこととして素直に受け入れていたに過ぎない。対人恐怖の人が、以前はそれがなかったというのと同様である。人間としてあるべき人情や心理は病気であろうがなかろうが、誰にもあらざるを得ない。それを仕事の妨害になると考えて、雑念を排斥しょうとして、初めて雑念が意識の全面に立ちふさがって、実際にそれが仕事の邪魔になって来たのである。

完全欲の強い神経質者は勉学するにも、完全な精神統一の状態でなければならぬと念ずるので、事実に裏切られて、かえって雑念のとりこになってしもう。精神の統一も何もいらぬ。雑念があるままに、雑念もどしどし起しながら、それに逆らわずに仕事もやり、勉強もする。そのうちに雑念も決して邪魔になるものでなく、雑念の中に趣味もあり、重要な思考もその中にひらめくことを悟るであろう。雑念という名前をつけるから、排斥したくもなる。我々が珍重する高山植物も、高山においては雑草に過ぎないのだ。雑念を排斥すれば、貴重な思考も共に捨て去るということになる。


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