c.疲労亢進、能率減退
我々がある仕事なり勉強なりをつづけているうちに必ず倦怠感を覚えるのは誰でも体験していることである。ところがこの倦怠は真の疲労とは必ずしも一致するものではない。興味ある仕事には倦怠感は容易に現われないが、嫌いなことにはただちに倦怠を覚える。好きな小説は夜遅くまで読みつづけて疲労しても倦怠感は中々起りにくいが、嫌な数学は一時間もつづけるともう倦(あ)きてくるという調子である。
神経質の人はこの倦怠感を疲労であると思い、自分は特別に疲労しやすくなっている。神経が衰弱している。身体のどこかに病気があるのではないかと危惧する。かかる人々は、仕事なり勉強なりに取りかかる前に、すでに疲労の予期恐怖があり、自分の不快気分に不安な注意を向けるのであるから、少しでも倦怠の気分があるとただちに疲労が来たと速断(そくだん)して、ますます自分の弱小感にとらわれるのである。ある一青年は、この疲労を恐れて四年間ほとんど何等の仕事もしなかったものであるが、三五日間の入院によって、疲労感のとらわれから完全に脱しているが、これは自分の神経が真に衰弱しているものでないことを、活動することによって体得しなければ容易に解るものではない。
能率減退感も同様である。一体我々の活動には必ず大小の波があり、律動を持っている。調子のいい時と悪い時が交互に来るものである。一日のうちにそれがあり、一時間のうちにもあり、細かく観察すると一分間の中にも緊張と弛緩の波があることは実験心理学的にも証明されることである。静かに時計の音を聞いていると、音が高くなったり低くなったりするのは、音そのものに高低があるのではなく、注意に緊張と弛緩のリズムがあるから、そう聞えるのである。クレーペリンの連続加算法というのをやると計算能率に不断の波のあることが明らかに現われる。我々が嫌な仕事にかかる時は、初めどうしても気が乗らず仕事がはかどらないが、そのままに続けていくうちに、いつしか仕事に熱中して我を忘れているという風になり、つづけていくとまた倦怠を覚えてまた止めたくなる。普通人はかかることを当然のことと思い、あるいは当然とも何とも思わず、ただ気が乗れば乗るままに、乗らなければ我慢してやっているので、実際に少しも差支えないのである。しかるに神経質の完全よくの強い人は、常に今能率が上っているかいないかを問題にしているので、少しでも渋滞してくると、能率減退を悩み、そのために仕事の内容には一層身が入らずに、実際にも能率減退を来たすということになる。前にかかることを問題にしなかった頃は、万事すらすらといっていたように思い、それと比較して今は雲泥の差があるように思うのであるが、前にも時と場合によって能率の上り下りは普通人と同様にあったのであるが、患者はかかることには思いおよばないものである。また彼らは最も好調子の時を標準にして、それと現在を比較するので、大抵の時が駄目のように思われるのである。