B.個々の症状とその対策

b.発作性心悸亢進(心臓神経症)

この発作は突然起ることが多く、時間は数分間のものが普通であるが、中には長時間に至るものもある。人によって程度の差はあるがこの際患者ははなはだしい不安に襲われ、今にも死ぬのではないか、心臓が止るのではないかという不安に襲われる。あるいは声を出して人を呼び、胸部を冷したり、医師を迎えて注射を要求したりする。かかる患者はまた、口内乾操、頭内充血感、四肢の冷感あるいは熱感、脱力感、身体諸部位の脈動感(どきどき波打つ感じ)、めまい、卒倒感、心臓部の疼痛感、呼吸促迫あるいは浅表感、耳鳴、咽喉の統狭感(しめられる感じ)、精神が錯乱しそうな感じ等の何れかをともなうことが多い。かかる場合の患者を見ると、顔色は蒼白で、呼吸は促迫(そくはく)し、脈拍は九〇以上一五〇に達するものもあるが、脈拍は一般に規則正しく、小さく軟かである。中には主観的苦痛に比して脈拍に大して変化のないものも多い。

一度びこの発作を経験すると、患者は、再度の発作襲来を恐れて、常に不安の状態がつづき不安な不吉な連想に悩まされ、誰もいない所で発作が起ったら、電車汽車の中で起ったら、歩行中に起ったらなどとそれからそれへと恐れて、ついに外出も困難になり、活動範囲は次第に狭められて、ついに我家より一歩も外に出られなくなる人もあり、中には臥床(がしょう)してしまうものもある。かかる人々はまた入浴を恐れることが多い。数ケ月間入浴せずにいる人もあり、浴槽に入っても不安のためただちに飛びでて、温浴を楽しむなど思いもよらぬという風になることが多い。これは入浴による体温上昇のために、心臓の拍動が盛んになることを恐怖するためである。また床屋に行くことを嫌う人も多い。これは、じっとして気を紛らすことがなく、不安に直面するので不安を強く感ずるためであろう。数回の発作を経験すると、もはや発作はほとんどなくなっていても、いつ起るかも知れぬという予期恐怖のために萎縮している人も多い。
本症が精神のからくりから起るということは、まず第一の発作の起った動機を見るとよく解るのである。例えば私の治療したある公吏は、スキーに出かけ、山中で吹雪に逢い、日も暮れかかったので非常な不安に襲われて突然動悸を覚えてから、心悸亢進発作(しんきこうしんほっさ)を持つようになり、ある青年は、中学生の頃友人が脚気衝心(かっけしょうしん)で亡くなったのを見て心臓麻痺を恐怖するようになってから心悸亢進発作が頻々(ひんぴん)と起り、ことに友人の毎月の命日になるとその不安がはなはだしく発作もはげしくなるという風になった。ある婦人は恐しい夢から醒めて胸のはげしい動悸を覚えてから、やはり時々心悸亢進を起すようになったのである。

一体我々の情緒と心臓のはたらきには密接な関係があるもので、昔の人は心が胸にある、ことに心臓にあると思っていた位で、心臓という言葉もそこから生れたわけであろう。胸苦しい、胸が痛む、胸騒ぎがするなどという言葉は、心の不安動揺と、胸部の器官、ことに心臓と密接不離の関係のあることを人が経験的に知っていることを示すものである。実験心理学的にも、情緒と心臓機能が互いに関連していることはすでに証明されていることで、どんなに些細な情緒の動きでもただちに脈拍に多かれ少なかれの変化を起すのである。生理学的にいうと、不安、苦悶、恐怖、吃驚(きっきょう)等の情緒の興奮は一般に交感神経の緊張を来たし、その結果、心臓の拍動数を増すということになるのである。

さて一度かかる発作を経験したものは、また起りはしないかという予期恐怖を持つようになり、ほとんど無意識的にも、不断に注意を発作に向けているという状態になる。それで何かの機会に前の恐ろしい発作の連想が浮び、はっとして胸の感じに異常を来すと、「来たな」という恐怖が卒然(そつぜん)として起り、俄(にわか)に心悸亢進がたかまってくる。しかし患者はこの発作の恐しさに夢中になっているので、自分の心のからくりには少しも注意が向いていないのである。だから当人は、精神的条件から起るものとは自覚せず、何か心臓の病気であると思い込み、ますます発作に対する不安を持つようになるわけである。

一言にして云えば心悸亢進発作は恐怖感動の現われである。恐怖不安の場合、植物神経の動乱が起りその結果心悸亢進の他に胸内圧迫感、眩暈(めまい)、脱力感、口内乾操、冷感、熱感等の起り得ることもまた当然である。
本症はいかに重症のものでも必ず治癒すべきもので、独力で突破し得ない人は入院療法で癒るものである。発作があっても決してこれに対して種々の手段を講ぜず、じっと耐えて己れの苦痛を見つめ、苦痛を迎える態度でいると間もなく消散する。いかに不安があっても身体的の仕事をつづけ、不安のために日常生活を制限しないことが大切である。発作があっても決して死ぬとかいうようなことはないものであるから、仕事をつづけてもなんら差支えないばかりでなく、苦痛に耐えて仕事をするという突破の生活でなければ治癒は望まれない。


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