m.其他の強迫観念
ある婦人が私のところに来てこういうことを訴えた。「万年青(おもと=ユリ科)」という観念が、頭に浮び上って、他のことはまるで考えられない、どんなにこの万年青の観念が浮び上るのを防ごうとしても、どうしても止めることが出来ない。目の覚めている間は万年青のことで心が占領されているというのである。ただこれだけのことでは不思議にも思われるのであるが、その起り方を見ると他の対人恐怖や疾病恐怖と本質的には変りはないのである。この婦人は家庭のことで、不安な境遇にあったとき、知人が訪れた際、その人に万年青のことについて、その栽培法や何かを種々話したのであるが、話がすんでから、自分が大してよく知りもしないことをおしゃべりしたが、その中にはでたらめのこともあったように思われて、非常に恥ずかしい気がした。その後万年青のことを想い出すと嫌な気分になるので、万年青のことを考えなければよいのだということに気づき、その考えが浮ぶと、しきりにそれを抑えつけようとしたのである。つまり不快な気分が嫌だからそれをなくするために、万年青を考えまい考えまいと念じたのである。ところが実際問題としては、そういう事件があれば、誰でも、万年青のことを考えると連想がすぐその事件と結びついて不快になるのは当然なわけである。普通の人はそのままそんなものと心得て思い捨てるのであるが、少しの不快をもなくすことが出来ず、強いてその観念を排斥するので、逆作用でかえってその観念に取りつかれてしまうのである。流れを渡るとき、流れにしたがって斜に行けばよいものを、流れにさからって行くので抵抗を強く感ずるようなものである。
私は強迫観念を次のように定義したことがある。「強迫観念とは、ある機会に普通人にも起り得る心理的または生理的事実を、ヒポコンドリー性気分より、何か病的のこと、異常のこと、あるいは自己保存上不利のこととして不安に感じ、この不安を来す事情あるいは不安そのものを排除しあるいはそれより逃れんとして成功せざる心の葛藤、およびそれに付随する苦悩煩悶の全過程を意味するものである」と、何だかむずかしいようであるが、実際にあてはめて見ると容易に理解されることである。
こんなわけで、強迫観念の内容は、その人の経験したことによって、無数にあるわけで、ここでいちいち述べることも出来ないくらいであるが、比較的頻繁に見られるものを簡単にここに述べて見よう。
これは黴菌(ばいきん)恐怖や伝染病恐怖と一緒になっていることが多い。いたる所に不潔物があるような気がして直接物に触れることが困難になり、触れた後ではすぐ手を洗うとか、リゾールやアルコールで消毒しないと気がすまないという風になると、日常生活も非常に困難になる。一日に二〇度も手を洗う人もある。あるいは便所に行っても数十枚の紙を費すとか、着物を着たままでいけないというのもあり、あるいは一日の大部分を掃除に費す例もある。私の治療した一人の婦人は、洗濯した自分の着物に一寸でも他人の手が触れると、必ずそれをもう一度洗い直さなければならず、洗った着物を入れてある箪笥(たんす)を他人が一寸でもあけると、非常に不安になって、それを全部洗い直さなければならぬというのがあった。
自分が何か悪いこと、不正のことをやりはせぬかということが気になる。人中に出てひょつと人の物を盗りはしないか、猥褻(わいせつ)なことをやりはせぬか、ふっと乱暴を働きはしないか、人の頭をなぐることがありはしないかなどと恐れて、人中に出ることも困難になる。マッチでも持っていると、ふとした衝動で放火するようなことがありはしないかなどと恐れて、火気に近づくことも出来ないというのもある。以前は式場に出て御真影(天皇、皇后の写真の敬語)に対し何か不敬なことを口走りはしないかというようなことが不安で、式場に出られないということもあった。
不正なこと危険なことを実行しやしないかと恐れるばかりでなく、悪い考えの浮ぶのを恐れるものも多い。実行しないことはちゃんとわかっている積りでも、悪い考えの起ることが辛いのであり、起すまいとする程しつこく変な考えが浮び上ってくる。神社、仏閣、式場等において不敬な考えが浮ぶので非常に恐れるというのも多いもので、涜神(神を汚すこと)恐怖と命名されている。神社や寺の前を通ることも出来なくなるのがある。また人に対していろんな口に云えない猥褻な考えが湧き、失礼なことを起してはいけぬと思う程、ますます突飛な性的なことがひよいひよいと頭に浮かんで、そのために疲労困憊(こんぱい)するのもある。また高い所にいる時など自分の子供を突然つきとばすことはないか、今にもそんなことをしそうな気がして不安になるというのもある。
これも非常に多いもので、簡単なものでは、数にたらわれる。数に好悪があり、三がいいとか四が悪いとか人によって種々な註文がある。三の嫌いな人は、三人集っても不安になり、階段を三歩で上るとまた引き返してやり直すとか、何事にも三を避けるので日常生活に非常な不便を来す。あるいは奇数がいいとか偶数が悪いとかいうのもあり、何かやり始める前に好きなだけの数を数えなければならぬという人もある。またある不善な事件が起った場合、それに関係したあることを非常に嫌うというのもある。例えば怪我をしたとき着ていた着物を二度と見るのも嫌であるとか、その時偶然日曜日だったりすると毎週の日曜が不安になるとか、試験を受けて成績がよくなかった時の登校の通路を嫌うとか、反対にまた、非常に好成績だった場合、その後その時通った路でないと登校が不安になるとか、何でも偶然のことを何か関係があるように感じて恐怖するのである。
尖ったものを見ると、それが自分を傷つけるような気がして不安になる。針が恐くて裁縫が出来ない婦人もあり、ナイフ、飽丁などのある所では落ちついて仕事も出来ない者、隣家の塀に硝子の破片を植えてあるので引越しをしなければならぬ人、極端なのは、尖った葉の植物を見ても恐怖を感ずる。ある人は寝ているときも、下駄箱の中の鋲のある靴が自分の頭の高さより上にあると眠れない程であった。
ある学者が調べたところによると、白刃でおどされるときのゾーッとする感じは肩中を肩から下にかけて走り、断崖のふちに立った時のゾーツとする感覚は踵(かかとのこと)の所から足の裏側を沿ってずうっと上に上るものであるという。このように高所において危険を感ずる不快を味うと、その後たいして危険でない高所をも恐れて、そこに行くことが出来ないものがある。あるいは卒倒恐怖の人が、高所で倒れたら大変だというので、高所に行けないものもある。
目に触れるものをいちいち数えなければ気がすまない。あるいはただ頭の中で絶え間なく数を数えなければならぬという状態で、日常の仕事もそのために支障を来すというのである。
何の益もないと知りながら何でも穿鑿しなければ気がすまぬ。何故机には足が四本あるか、何故男と女は違うのか、この樹には葉が何枚あるか、東京湾には魚が何匹いるかなどといちいち穿鑿するために毎日ぼんやり暮しているのである。
かかる強迫観念に対する処置は別に他の症状の場合と異なるところはない。彼らは常に気休めことに終始している。安心したい、不安から逃れたいというので、強迫観念を起すまいとして観念を抑圧したり、あるいは観念に従う行動を取って気分を腐らすのである。手を何度も洗った、消毒するとその時だけは気がすむ、同じことを何度も繰返さぬと不安になるので、だらしなく繰返している。苦しいことは避けるという風で、いつまでもどうどう巡りをしている。苦痛不安に耐えて強迫観念はどしどし起しながら、強迫行為を止める、その苦しさを忍んで、なすべき現実の仕事に精進する態度でなければ、新しい境地の打開は望まれないのである。強迫観念は起るに任せ、起しながら実際の仕事をやれるという体験を経て、強迫観念も次第に影をひそめるのである。かくして強迫観念らしき考えが時々頭に閃いても、「おのずから映れば映る、うつるとは月も思わず、水も思わず」という自然の境地も開かれて来るのである。