B.個々の症状とその対策

a.不完全恐怖、過失恐怖

完全欲は誰にもある。完全は気持よく、不完全は不快である。我々は我々のなすことが完全でありたいと欲するから、事をなすに当って、よく準備もし、よく注意もするのであって、完全欲がなければやりっぱなしになり、目的を遂げることが出来ないのであるから、完全欲そのものは、我々の生活上大切な心理であって決して病的のものではない。
しかし完全とはいかなるものであろうかと詮索してみるとなかなかむづかしいことになる。ガラス窓を磨くにしても、どの程度によごれをなくしたらいいのかが問題になる。現在の気温では着物を何枚着たらいいか、ハンカチはどれくらい汚れたら洗っていいか、道を歩くにはどのくらいの速度がいいか、いちいち問題になってくる。そろばんを二度やっても安心が出来ず、三度も四度も繰返したり、戸締を二度も三度も調べなければ気がすまぬもの、手紙を書き封をしても何度も開いては調べる。ポストに入れても、よく入ったかいなか安心出来ずに幾度も手をつっこんでみる。このように同じことを何度も繰返すことを馬鹿らしいと思いながら、心の不安があると、それを鎮めて安心したいために、気休めことをしているもので、不安をそのまま持ち耐えて行くことをしないのである。学生が夜、ガスストーブのガスの洩れるのを恐れて、夜中に五度も六度も起きては栓をしらべていたいというのも、ある主婦が着物を洗濯して物干にかけて、それが風のために落ちやしないかと心配になり、日に幾十度となく眺めて見るというのなども、どこまでも安心したい、不安をなくしたいという気分本位になり、事実にそくしない生活態度になっているのである。不安が起っても、一度確実なことを確めたなら、そのまままた不安が起っても、それをじっと持ち耐えてゆけば、恐怖を突破して新しい境地が開けるのである。もちろん一度や二度の突破ではない、毎日の生活でそれを実現していかなければならぬ。過失を恐れて、仕事が手につかぬというのも同様のことである。

我々は多くの事をすればする程、何か大なり小なりの過ちを起さぬわけにいかぬ。過ちを起して、それが将来のいましめにもなるのである。絶対に過ちを起してはならぬという態度になると、もはや何事も出来なくなる。何事もしないということは、これ程重大な過りはあるまい。神経質の人はそのことに気がつかぬのである。
我々が現実の事に多忙な生活を送る時には、その活動のリズムに乗って、いつまでも同じことにかかわってもおれず、時に応じことに臨んで自ら適するように精力が配分されて行くのであって、知らず識らずのうちに適当の判断も行われるのである。活動のリズムをつくることがまず大切のことであり、それは気分のいかんにかかわらず、気のついたことには即座に手を下していくという生活を馴致(くんち)しなければならぬ。間髪をいれずに手を下すのである。しかし、ただ不安を鎮めるための気休め事の実行はこれを厳に戒めることはもちろんである。


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